手相見のつぶやき

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私は手相見。手相鑑定や占いとは違うと自分では思っている。

手相は自分自身の内面を表すものであり、予言ではないからだ。

手相を見始めて、代価を頂戴するようになって、5年め。その数は先日3桁になった。

専業の方には及ばない数だが、こんな小さな街で、この数まで見ているとは思っていなかったな。

手相見で代価を得ると決めたとき、心の師匠から言われたことは、「他人の未来を読むことは、野たれ死ぬ覚悟をすること。嫌なら今までどおり趣味で見なさい」。当時、失業中の私は思いがけず、手相見で代価を得ても、まだ迷っていた。未来を見ればみるほど、その代償は体にくる。見れば見るほど、視力は落ちるし。

けれど、口コミで依頼は途切れずにやってくる。忙しすぎず、暇すぎず。絶妙なタイミングだ。

自分ではたいしたことないと思っている手相見を必要とされている。

そこで私は守護霊に願いをかけた。「これから、運の良くなる人と縁をおつなぎください」と。

たかが手相見、自分の開運も及ばないのに、他人様を幸福に導くことはできないが、探すお手伝いはできるかもしれない。そう、探すだけは。

口コミで、紹介されても、連絡がつかないままの縁がつながらない、日程が合わない場合がある。私と会って手相を拝見させてくれた依頼主は、私の背後霊が「OK」と判断したと信じている。

手相を見て欲しいというのは、どんなときだろう。

未来の楽しみを自分に見つけるため。苦しい今をなんとかしたいから?

今が苦しいのは、「今のすごし方のままではダメだ」と自分でわかっているからだ。

手相をたどりながら、可能性を探す。

アレはできない。コレはしたくない。ワカッテいるけど、やりたくない。というのであれば、今の苦しみが楽なのだろう。変わりたいけど、変わりたくないのだ。

助けて欲しい、何とかして欲しい。でも自分ではしたくない。というのであればとことん、苦しみや悩みに浸ってみる。

本当に苦しいならば、そんなことは言っていられないから、やるしかなくなるのだ。

自分が変われないのに、周りに変われ、なんていうのは無理。

どんなに辛くても、隣の人がうらやましくても、その人にはなり代われない。

昔、趣味で見ていた頃、「どうして無料で見てくれるの」「どうして良いことばかり教えてくれるの」と訪ねられたが、責任がなかったからだ。

見料をいただけば、もっと深い部分も見なければならない。責任も出てくる。

見立ての結果が不本意の場合は、罵倒され、恨まれる場合もある。最悪刺されてしまうかもしれないのだ!

お遊び、趣味の延長でいるならば、言うほうも聞くほうも責任がない。

ずっとコミュニケーションツールとして、手相見をしていくつもりだったのだ。

…ずっとそう思っていたのだが。

病になって、職を失って、氣がついたら、私は手相見をしていた。

手相見をやめて、暮らしていこうとジタバタ、セカセカあがいたけれど、ものの見事に世間様の「普通」から弾かれて、現在に至る。

見えない力を感じるなぁ。

依頼主の方へ

今がつらいのなら、耐えるか、動くしかない。

私にはなにもしてあげられない。依頼主が自分で動かないと、変わらない。

確実に言えるのは、他人を変えるのは難しいということだ。

リピーターさんも増えてきたけれど、先に拝見したときと、状況が変わっていない場合は、拝見するのをお断りする場合もある。

その人の未来に必要な苦しみがある。苦しみを自分が欲している場合がある。次の扉を開けるための苦しみだ。

苦しみを経て、見えるものがある。

私が、手相見へと導かれたように。
 

 

ren

手相見歴30年以上、同じく天然石愛好家です。

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