
言葉には選び方がある。タイトルどおりの話。
好きじゃないけど=嫌いだけど というくくりと同じだろう、と思うかもしれないが、微妙にこめる意味が違う。私的にはこれが、手相見で語る「言葉にワンクッションおいてはいかが」ということ。
30歳になりたての頃、タウン紙のチラシの折込工場のバイトをしていた。
今でこそ、タウン紙は、珍しくもないが、当時は折込チラシが入るのは、新聞というのが普通だったから、それはそれは画期的なことだった。
情報紙に折込をチラシをセットする仕事。一人一台折込機が与えられ、割り振られた部数の折込をする。
それは、だいたい、チラシが印刷やさんから届いて、配達員さんへ配達するまでの午前10時から午後3時までが折込時間である。
10段ある、給紙トレイに情報紙、チラシをセットして機械を稼動させる。
一見誰にでもできる簡単な作業のように思えるが、これが意外と曲者。
情報紙は、2部ほど、それにチラシが数種類あり、それも受け持つ配達区域によってチラシの種類も部数も違っている。それを記したフダを渡され、それに合わせて折込機を作動させる。
機械を止めずに、一気に折込作業し、割り当て分を消化するのが、上級者である。
チラシの印刷面のインクによって、機械の各給紙トレイがチラシを送り出す速度が違うし、トレイにセットするチラシの順番次第では、うまく機械が動かずに、自動停止する。
両面印刷されているチラシは滑りやすく、油断ができない。給紙速度を調節しないと、紙詰まりして破損し、または重複して折込まれて、チラシの数が不足する。
作業が遅れると、仕事の速い人が、遅い人の元からチラシを奪っていって、モタモタしていたら、自分の機械で折込むチラシの数が足りなくなる。
チラシが足りなくなると殺伐として、作業員同士がののしりあったり、男性同士が取っ組み合いのケンカしたりすることも、あった。
まさに弱肉強食。すべてが個人責任。
チラシの折込む種類を間違えてしまったら、懲戒処罰もあるらしい。
らしい、というのは、私が勤めていた間、処罰された人はいなかったからだ。
年末のチラシはものすごい種類が折込まれるので、作業は月半ばから夜遅くまでの作業となる。
機械のクセを掴むまでに一苦労、チラシのクセを掴むまで、作業場の人間関係に馴染むまで一苦労だった。
私は自分に任された折込機に「エリザベス」と名前を付けて
「今日のエリザベスはご機嫌ななめなの~~」とか叫びながら、機械を操作していた。
首に手ぬぐいを巻きながら。Fビルにある工場は暑かったという印象しかない。
けれども、仕事の処理が速くて、割り当てられる部数が多くなると、能力給がプラスされ時給が上がる。
当時、私の隣の機械で折込をしていたのは、パートの主婦Aさん、年齢は40代だった。
Aさんは、工場内、十数人の中でも古株で、なによりも折込作業の速さは抜きん出ていた。
割り当て部数も一番で、私がバイトを始めたとき、指導してくれたのもAさんだ。
Aさんは無愛想で、自分にも他人にも厳しい人だ。
にっこり笑ったところは見た記憶がない。
言いたいことは工場長にも周辺の人に容赦なく言う。
言ってることは正論で、相手が自分のことをどう思うかなどはかまわないようだった。
強い人だ。
一度、工場内にトラックから荷物を運ぶように指示されたときも、工場長にむかって「私は折込に来ているんですから、手伝いません」とぴしゃりと言って動かなかった。
作業量は一番、仕事の速さも一番なAさんには、誰も、工場長すら何も言えなかった。
うちとけて会話をすることは一度もなかったが、他の社員との会話から
Aさんには高給取りのご主人がいて、ご主人の帰宅までに仕事を終わらせて家事をしなければならないことや、働いていても「お前の稼ぎがなにになる」と言われているらしいことがわかってきた。
私と同じ頃に入社した二人の男女は各々、体が弱い、掛け持ち勤務などの事情があり
仕事が休みがちであった。
働いている人が一人休むと、その人が受け持っている部数は、残った人間に割り振られる。
私は、時間が長くなるのでありがたかったが、
それを処理する分、帰宅時間が遅くなるのが不満だったAさんは
二ヶ月が過ぎた頃、工場長に「あの二人をなんとかしてください!」と訴えた。
なんとか、というのは、暗に辞めさせろということだった。
数日後、二人とも仕事を辞めていった。
私はAさんの隣でAさんの仕事振りを参考にして、作業をしていた。
折込機にチラシをセットする前の準備や、いかに機械を停止させないで、チラシをトレイに補給して速く作業を終了させるのか。
Aさんには、きっと眼中にすら存在しなかっただろうが。
当初、仕事が遅くて、手持ちのチラシを奪われる一方の私だったが、やがて順調に割り当て部数も増え、工場長から「紅乃さんがこんなに早くなるなんてなぁ」としみじみ言われた。
おかげで試用期間後すぐに時給も上がり、仕事にも慣れた頃、別の仕事場からお声がかかり、その工場は辞めた。
辞めるときに、口頭で工場長に告げたのだが、工場長は「冗談でしょう」と相手にしてくれなかったので後日、辞表を書いて持参した。
工場長は物陰に私を呼び「なにかあったのか?」と声を潜めて尋ねてきた。
それくらい、人の出入りのある職場であったことは確かだ。
Aさんの無愛想というか、若い娘が嫌いなのか、当時の同僚で20代のB子は、「大嫌いよ。Aが辞めてから、辞めるのを目標にしているんだ」と明るく話していた。
接点は、バイトしていた1年弱の間ほとんどなかったが
私はAさんのことは好きじゃないけど、仕事に対する姿勢や厳しさは尊敬している。
作業が早くて、手際が良くて、自分の主張や言うべきところは、きちんという、その強さに憧れる。
仕事ができなくて主張するのは、バカにされるけど、デキる人が言うと、みんな納得するということを
勉強させてもらった。
人生とは面白いというか、なんというか、Aさんの親族は私の高校の教師だったし、
「稼ぎがなんになる!」と話していた(らしい)ご主人と、今の職場で会って、パソコンソフトの使い方を教えることになろうとは。
Aさんと仕事をしたのは10年以上前になるけれど、私はたくさんのことを直接、間接的に指導していただいたようなものだ。
B子の仕事のモチベーションにも、影響を与えているところなんて、さすがである。
辞める!と言わずに、「Aよりも一日でも長く働いてやる」というB子もさすがだと思う。
このバイト先は、私の手相見の人生に大きくかかわっている。チラシが印刷工場から届くまでの待ち時間に、この作業場で多くの作業員の手相を拝見する機会を得たのだ。
「結婚線が長いから、結婚したがっている」
「結婚線がないけど、何度も結婚している男性」
色んな事情を抱えていた。多くの人。今のわたしがあるのは、当時、そこで働かせてもらったことも大きいと思うのだ。
Aさんの手相も拝見したかったが、とても気軽に「手相を見せてください」と言えなかったなぁ。
大晦日に、社長から、みかん一箱、お酒一升瓶が振舞われて、雪の中抱えて帰宅したのも
いい思い出である。
毎日届く、タウン紙の折込チラシの中に、たまに同じチラシが2枚入っていたりすると、折込機と格闘していた頃の自分を思い出す。
久しぶりに折込工場の前を通ったら、私のバイトしていた頃より、工場は増築されて広くなっていた。人数も増えたことだろう。
私はあいかわらず、仕事がデキて、上にぴしゃりと言えるという人間になってはいない。
ずっとずっと未熟で不出来なままである。
だからまだAさんは、「好きじゃないけど、尊敬する人」だ。