私は手相見である。
スピリチュアルをかじっているが特定の宗教を信じているわけではない。
偉い神様が降りてくることもないし、天使が囁いてくることもない。内なる声にしたがっている。
子供の頃は、キリスト教会で葬送されるのに憧れていた。
若い頃、お寺のお坊様とのお見合いの話を「牧師様ならいいですけど」と言ってお断りした。今考えると、罰当たりな人間で申し訳ない。
昔見た夢から想像するに、前世はクリスチャンであったかもしれないが、厳密に言うと神様は信じているが、特定の宗教の神様を信じているわけでもない。
けれど、この宇宙には見えざる力が働いていると信じている。それゆえ「水晶教」を自称しているが、一般の枠にはめてみると、無宗教に近いかもしれない。
信仰という文字は「信じて仰ぎ見る」と書く。自分が信じるものがあれば、他人にとやかく言われても、いいではないか。他人に教えを押し付けなければ、自分が信じているなら、いいじゃない。
人間関係を築くとき、宗教の話はタブーとされる。
宗教だけではなくて、自分の好みを他人に押し付けてはいけない。
信じる存在が何であっても、作家や歌手や映画や色、香りいろいろあるけど、相手の好みにダメだしは控えておくといい。敵意を向けられずに済む。
人には、たった一度の思い出を糧として生きていける強さもある。
ようは、自分の中に在るものを信じ続けられるかどうか、だ。
たとえば、好きな人があなたに対して秘密を持っていた。
その秘密を知ったとき、あなたは 「騙されていた」と憤るか
「(相手を)好きになったのは、自分だから、それでもいい」 と納得できるか。
あなたにとっての 信仰=宗教 ではなくて、「信じて仰ぎ見る存在」は何だろうか。
私も手相を見て、恋愛の先に待っている運気を読むけれど、依頼主の深い心の奥では、その先がもうわかっているのではないかなぁ と思えることがある。自分でなにか兆しを感じているのかも。
それを明確に今、示して欲しい、示すときが来た、という流れが、私への縁に繋がっているのかもしれない。
もっと、自分の強さを信じるということも、人生のテーマなのかもしれない。