風水開運花文字

某月某日、テレビのニュースで、デパートのイベントの紹介があり、そこで行列ができるお店として、「花文字」が紹介されていたのを見ました。

一目見たときから氣になっていまして、札幌までは足を運ぶのが億劫な私、ネットで探してみました。予想以上に多くのヒットがあり、また一口に花文字といっても、個性があるのを知ったのです。

普段、手相、風水、天然石 などの開運アイテム探索人としては、惹かれたからには手にしてみたい。そう思いながらもフットワークの鈍い私でした。

今回、そろそろ、ブログのトップも変えたいわ、と思っていたところ、手相見の依頼や天然石の依頼が続いたのを、「啓示」(大げさですね)として、これからの発展を願って注文させていただきました。

逸書堂さん

花文字は飾るだけで、開運する、と言われます。鮮やかな色彩、華やかな図柄で構成されています。

なによりも、見た目が美しいので、目にするだけで、大変幸福な気持ちになれるのが良いです。

写真では美しく再現できませんでしたが、赤色には蛍光色が入っており、それはそれは美しいのです。

文字「煉」のみを指定して、どの吉祥シンボルの絵柄を配置してくれるかは、作家さんにお任せしました。

図に描かれているシンボルは以下のとおりです。

竹=健康、元気

蝶=幸福 楽しく暮らす

カササギ=福を招く

鳳凰=頂点に立つ

牡丹=良縁に恵まれ 夢を叶える

という意味があるそうです。

お値段も、芸術作品として、そんなにお安くて良いのでしょうか、というくらいでしたが、なによりも、作家の方の誠実なお人柄を感じられて、嬉しいです。

注文した色調の台紙が品切れということで、電話をいただいたのですが

台紙がなければ色紙のみで良いと伝えましたら、在庫の中から選んでくださいました。

22日の夜に注文して、26日に届きました。早かったです。

そして、届いた台紙と色紙の大きくて立派なこと。予想以上です。

梱包も丁寧で厳重にされていて、ここにも気配りを感じられます。

作品とともに とても感激しました。

2度目のお電話をいただいたときに、ブログに載せるお許しをいただいたので

ホームページのアドレスを貼っておきますので、ぜひともご覧ください。

一文字 千円から。台紙、送料は別です。

自分や大切な方への贈り物としても素敵です。

 

手相見のつぶやき

私は手相見。手相鑑定や占いとは違うと自分では思っている。

手相は自分自身の内面を表すものであり、予言ではないからだ。

手相を見始めて、代価を頂戴するようになって、5年め。その数は先日3桁になった。

専業の方には及ばない数だが、こんな小さな街で、この数まで見ているとは思っていなかったな。

手相見で代価を得ると決めたとき、心の師匠から言われたことは、「他人の未来を読むことは、野たれ死ぬ覚悟をすること。嫌なら今までどおり趣味で見なさい」。当時、失業中の私は思いがけず、手相見で代価を得ても、まだ迷っていた。未来を見ればみるほど、その代償は体にくる。見れば見るほど、視力は落ちるし。

けれど、口コミで依頼は途切れずにやってくる。忙しすぎず、暇すぎず。絶妙なタイミングだ。

自分ではたいしたことないと思っている手相見を必要とされている。

そこで私は守護霊に願いをかけた。「これから、運の良くなる人と縁をおつなぎください」と。

たかが手相見、自分の開運も及ばないのに、他人様を幸福に導くことはできないが、探すお手伝いはできるかもしれない。そう、探すだけは。

口コミで、紹介されても、連絡がつかないままの縁がつながらない、日程が合わない場合がある。私と会って手相を拝見させてくれた依頼主は、私の背後霊が「OK」と判断したと信じている。

手相を見て欲しいというのは、どんなときだろう。

未来の楽しみを自分に見つけるため。苦しい今をなんとかしたいから?

今が苦しいのは、「今のすごし方のままではダメだ」と自分でわかっているからだ。

手相をたどりながら、可能性を探す。

アレはできない。コレはしたくない。ワカッテいるけど、やりたくない。というのであれば、今の苦しみが楽なのだろう。変わりたいけど、変わりたくないのだ。

助けて欲しい、何とかして欲しい。でも自分ではしたくない。というのであればとことん、苦しみや悩みに浸ってみる。

本当に苦しいならば、そんなことは言っていられないから、やるしかなくなるのだ。

自分が変われないのに、周りに変われ、なんていうのは無理。

どんなに辛くても、隣の人がうらやましくても、その人にはなり代われない。

昔、趣味で見ていた頃、「どうして無料で見てくれるの」「どうして良いことばかり教えてくれるの」と訪ねられたが、責任がなかったからだ。

見料をいただけば、もっと深い部分も見なければならない。責任も出てくる。

見立ての結果が不本意の場合は、罵倒され、恨まれる場合もある。最悪刺されてしまうかもしれないのだ!

お遊び、趣味の延長でいるならば、言うほうも聞くほうも責任がない。

ずっとコミュニケーションツールとして、手相見をしていくつもりだったのだ。

…ずっとそう思っていたのだが。

病になって、職を失って、氣がついたら、私は手相見をしていた。

手相見をやめて、暮らしていこうとジタバタ、セカセカあがいたけれど、ものの見事に世間様の「普通」から弾かれて、現在に至る。

見えない力を感じるなぁ。

依頼主の方へ

今がつらいのなら、耐えるか、動くしかない。

私にはなにもしてあげられない。依頼主が自分で動かないと、変わらない。

確実に言えるのは、他人を変えるのは難しいということだ。

リピーターさんも増えてきたけれど、先に拝見したときと、状況が変わっていない場合は、拝見するのをお断りする場合もある。

その人の未来に必要な苦しみがある。苦しみを自分が欲している場合がある。次の扉を開けるための苦しみだ。

苦しみを経て、見えるものがある。

私が、手相見へと導かれたように。
 

 

運氣は伝染(うつ)る

先日、ワイヤーを購入しているwebショップで、卸会員さんの新規会員募集というのが案内されまして、審査書類を提出したところ、卸会員になることができました。

私は商いとしている自覚はなくて、かといって、人様に提示できるお免状のある資格とは無縁なので、申請区分は、おこがましくも「ビーズ作家」ということで、このサイトアドレスも記しました。

卸会員になったらなにかいいことがあるのか、といえば、アーティスティックワイヤーなどが卸値で購入できるということです。これで、心置きなく、チェインメイルなどで作れるので、ありがたいことです。

さて、「春はゴールドルチル」とテーマを決めており、おかげさまで、私一人では手にすることが叶わなかった高級なゴールドルチルを目にすることができ、第一、第二の仕入れはおかげさまで完売となりました。

完売となったところで、第3弾の仕入れを要請され、思い切って、第3弾、仕入れることになりました。

石の数は7つ。そのうち3つは御予約済みですが、まだ4つが新しい持ち主をお待ちしています。

今回の仕入れサイズは12ミリ珠。卸さんのお話では、ゴールドルチルのブレスレットだったものをばらして販売用の連仕様にしたものです。今回は4分の1連という最少単位で購入しました。

口コミで評判を聞いて、申し込みが続いているので、私も思い切りました。

先に購入された方々の言葉を信じて、興味をもって、依頼が来るのです。これは

まさしく運気が伝染(うつ)っている。良い展開です。

自分の良い運を、囲い込まずに多くの人にシェアしている。

これは、良い感じです。

たぶん、この品質のゴールドルチルを私が思い切って購入するのはこれが最後だと

思います。

この口コミという形で伝播している運気、掴みに来るかどうかは、あなた次第です。

今回は石の呼ぶ波動のせいか、キーホルダーに作ることが多かったです。

キーホルダーは「輪」の形状に作っているのは意味があります。

「輪」は「和」であり、「円」=「縁」である。また円陣をあらわして力を増幅します。

手元に残ってしまったら、運気あがりまくり!ということで、宝くじでも買ってしまおうかな。

氣になっている方がいらしたら、手にした人が良い運で繋がっている「今」、「今でしょ」!

一日幸せになりたければ

幸せを感じるのは、運が良くなったときですか。

テクニックとして、幸せを感じていれば、さらなる幸せを引き寄せることができる。自分を良い気分にすることができればいい。

小話に

「一日幸せになりたければ、床屋へいけ。一年幸せになりたければ、結婚しろ。一生幸せになりたければ、印鑑を買え(笑)」なんていうジョークというかお笑いのネタがあります。

私は、先日、カットが氣にっている近所のヘアサロンで、初めてシャンプーをお願いしてみました。

そのヘアサロンは、カットのみのメニューが選択できる、お安い価格が魅力的な店ですが、お値段よりも、自分に合うヘアアーティストさんがいらっしゃるので、通っています。

いつもと違ったサービスを受けてみたい~と思ったのです。

やはり、プロに洗ってもらうと気持ち良い~。頭皮も肩マッサージも力強くて気持ち良い。

数百円のプラスで、お値段以上のリラックスを得られました。満たされたこの感覚が大事なのだと改めて思った次第です。価値のある施術だったと思います。

そして、いつもの先生にカットしていただいて、お話で伺ったことが…。

それは、お財布の中に猫のひげを入れておくと、金運が上がるというお話。初耳だったので、ネットで調べてみましたら、かなりな件数で話題がヒットしました。

我が家には猫が4頭おりますが、立派なひげが抜け落ちているのを見るたびに、もったいないなと思いつつ掃除していましたが、これからはためておこうと思います。

とりあえず、ナマ猫から抜くわけにも参りませんので(笑)、2年前に逝ってしまったコタロウの形見のひげを、お財布に入れてみました。

開運は、試さずに文句を言うな~!文句は試してから、試してみるのはタダ というのが私の持論。

試してみても、即効性は期待しない。

運を司る世と、この世には、叶うまでタイムラグが存在する。

神の一瞬が、人の数年の場合があるのだ。

果報は寝て待て。というではないか。


 

”運”についての個人的な考察

ブログにも以前、書いた話かもしれないが、あらためて書いておくことにした。

「運」が良いというのはどういうことか。

具体的には個人によって違うだろうが、字のごとく「運」とは運ばれる存在である。

誰かが何かが、あなたのもとへ運んできてくれる。

私は昔、大きなスーパーのフードコートで隣り合った店舗のバイトさんが、同じような商品を作っているのを遠目で見ていたときの話だ。バイトさんは年齢が同年代くらいで、どちらも男性だ。

片方の男性Aは、ひどく仏頂面で、下を向いて、クレープを焼いていた。

もう一方の男性Bは、にこやかで笑みが絶えないまま、同じように、クレープを焼いていた。

自然と、行列ができたのはクレープのほうだ。

味は食べ比べたら、Aのほうが美味しいかもしれない。表情が仏頂面なので、食べたい、という気持ちが湧き上がらない。

Bのほうは、もしかしたらAの焼いたものより味が落ちるかもしれない。けれども、そのにこやかな笑みにひきつけられて、人の列がつながる。

運を上げたい、良い運に恵まれたい と切望するならば、この笑みが重要で、人が引きつけられるということが必要だ。集まる人が多ければ、情報が集まってくる。情報が集まれば、それだけチャンスに恵まれるということだ。

昔、見ていた海外のテレビドラマの話だが、大富豪一家に破産の噂がたったとき、庶民から嫁いだ後妻は、うろたえて、先妻の娘に、問う。「私はどうしたらいいの?」

上流階級育ちの娘は、後妻に対して言い放つ。「いつも以上に、着飾って、いつもどおりパーティに出て。いつもどおりよ」

この場面が印象に残っているのは、破産しかかっているから、みすぼらしさを前に出すな、(金持ちなりの)平常心を持て、的な術を感じるからだ。

運にも共通する。面白くないことがあった、不幸があった、悲しい…人間でいると、色々ある。悲しくて落ち込んでいると、泣きっ面に蜂というか、続くことがある。

不幸なことがあって、思い切り泣いてもいい。けれど他人に対しては、平常心、微笑んでいれば、運は周りが運んできてくれる。

作り笑いでも良いんだ。

仏頂面で周辺に文句を言っていると、周りの人は大人だから、一見、応じてくれていて、一時、幸福感を感じるかもしれないが、それは真の開運につながらない。

それは、周りの人のおかげだから。

あなたが、微笑むと、運は、周囲の人から運ばれて、集まってくる。

幸せとは「なるもの」ではなくて、「感じる力」が重要とも言う。

苦しいとき、切ないときは作り笑いでもいい。

運の良い人を演じることが、本当に運の良い人になれる、近道である。

そして、本当に運の良い人は周りをも幸福にしてくれる。

 

その瞬間

想像してみよう。ビニールの袋を指先で穴を開けるとして。

穴を開けるとき、指先は圧力がかかって、痛い。痛いがさらに力を加えて、穴が開いて、突き抜けた指先は、楽になる。

凡庸なたとえで恐縮だが、私の開運のイメージはこんな感じ。

別のたとえで言うなら、セーターを着るときの、頭を出すまでの、キツさというか。

つまり、開運するときは、その寸前が一番、キツイというかつらいと言うか。そこをこらえてさらに一歩踏み出すと、取り巻く運気はがらりと変容する。

ある神職の方が話してくれたことがある。

「苦しい時、もうダメダ、思ったとき、実は目標まであと少しのところに来ている。

神様は”もうダメだ”という立場に人間を置いて、試す。それでも踏ん張れるか。それでも頑張れるかと。それでも、頑張った人に、願いは叶う。」

苦しいとき、辛いとき、私はこの言葉を思い出す。願い事がたやすく叶うよりも、そのほうが、人間にはいいのかもしれない。

たやすく叶ったという願いは、本人が、苦難や労力を、苦に思っていないだけかもしれない。

手相を見て、運の流れを見てみるということは、その人の希望の存在を確かめることに近い。

絶望したくて、手相を見て、という人はいないだろう。希望が見えるかどうかが知りたいからこそ、手相を見て欲しいと希望するのだ。

運が開ける、変わり目は一番つらく、きつく、ついていないと感じることが多い傾向がある。