想像してみよう。ビニールの袋を指先で穴を開けるとして。
穴を開けるとき、指先は圧力がかかって、痛い。痛いがさらに力を加えて、穴が開いて、突き抜けた指先は、楽になる。
凡庸なたとえで恐縮だが、私の開運のイメージはこんな感じ。
別のたとえで言うなら、セーターを着るときの、頭を出すまでの、キツさというか。
つまり、開運するときは、その寸前が一番、キツイというかつらいと言うか。そこをこらえてさらに一歩踏み出すと、取り巻く運気はがらりと変容する。
ある神職の方が話してくれたことがある。
「苦しい時、もうダメダ、思ったとき、実は目標まであと少しのところに来ている。
神様は”もうダメだ”という立場に人間を置いて、試す。それでも踏ん張れるか。それでも頑張れるかと。それでも、頑張った人に、願いは叶う。」
苦しいとき、辛いとき、私はこの言葉を思い出す。願い事がたやすく叶うよりも、そのほうが、人間にはいいのかもしれない。
たやすく叶ったという願いは、本人が、苦難や労力を、苦に思っていないだけかもしれない。
手相を見て、運の流れを見てみるということは、その人の希望の存在を確かめることに近い。
絶望したくて、手相を見て、という人はいないだろう。希望が見えるかどうかが知りたいからこそ、手相を見て欲しいと希望するのだ。
運が開ける、変わり目は一番つらく、きつく、ついていないと感じることが多い傾向がある。