先日、フランスのパリに旅行に行くという友人のメールを受け取り、パリをバリと読み間違えて「バリに行くなら、ガムランボールを変わりに買ってきて」と返信したところ「旅行先はBaliではなくParisです。」とあり、「あちゃ~。ガムランボールへの想いが字を読み間違えさせたんだわ」と反省しました。他人を当てにしているからこうなる、なんとか良いガムランボールがないかなぁとネットで探し回ったら、写真のアイテムを見つけたわけです。セール品だったので、本場バリ島からの送料を加えても定価の半額!良い買い物をしました。
ネットショップでは、その他、さまざまなアイテムを取り扱っているようです。
■バリ島発 rainbowspirit
さて、最近の相談内容に目立つことが、「傷ついた」と訴える事案。
人生、長く生きていると、もちろん、傷つくようなことを言ってくる人はいけないが、傷つく、傷つかないは、自分でコントロールできるのではと思うのだ。
あの人がああ言った、わたし傷ついたんですけど! と訴える人がいるとして
相手を責めて、一時相手が態度を改めたとして、同じような事案が起こるたび
「私、傷ついたんですけど!」ということをしていると、回りから「腫れ物を触るような扱い」をされる。
本人もそれを求めているのかもしれないが、「腫れ物に触るような扱い」と「大切にされる扱い」は似て非なるものである。
そこのところを押さえておかないと、傷つく私を大切にして~!とアピールしているうちに、大切なことを忘れてしまう。
石の話にたとえると、ダイヤモンドは硬い。傷つかない強さが珍重されるが、ダイヤモンドでさえ、同じダイヤモンドで傷つくのだ。
また、傷つくからこそ、美しいカットが施され、美しい光を放つのだから。
傷つくことに敏感になって、相手をコントロールしようと思わないことが大切だ。
極端な話、傷つくのは、自分の勝手だから。
傷つきたくなければ、強くなるなり、その場から去るなり、自分で決めなくてはならない。
自分で決められるのだ。
強くなるには、考え方の癖を、変える。発想の転換をする。
昔に比べたら、ネット環境もあるし、書物もある。
お金がないなら図書館で借りて読むこともできる。
行動するのみである。
相手をコントロールするより、自分でなんとかするほうが、現実的。
自分に敵対している(と思われる)人には、聖書の一文にあるように、「復讐するのは、あなたではない。わたし(神)である」
そういう人への復讐は天にお任せしておけばよい。
傷つくのがいやなら、強くなるしかない。
鋼の強さか、しなやかなしたたかさか。それは私も、もちろんあなたも選べるのだ。
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