世界は自分の見るように見える

仕事の山場が過ぎたと思ったら、飼い猫が膀胱炎になって通院、慌しい。

落ち着いた頃、母が「頭が痛い」というので、年齢も年齢なので、脳外科に連れて行ったところ検査結果は

「脳には異常なしです。肩こりから来ている頭痛ですね。痛み止めを処方しておきます」と大事にならなかった。

そんなところで、週末のバイトへ。ところが雪が降って、バイトは半日で終了した。それで、時間ができたが、結局、自宅周りの雪かきに汗を流した。

これを、大変だったわ~と捉えるか、充実していたなぁ、と捉えるか。

自分を取り巻く世界は、本人の見たいように見えるのだ。

昔、悩める人がいた。

彼をDさんとしておこうか。彼は、都会育ちで、どうにもこの街に、というか街の人が好きじゃないらしい。

Dさんと私の仕事での接点は数分なのだが、そのわずかな時間に「この街の人にああ言われた、こう言われた」とこぼす。

愚痴という漢字にあてはめるほどではないが、その負の言葉の連なりに、わたしは相槌をもって流すのみである。

親身なアドバイスや真剣な言葉は、依頼主には尽くすが、Dさんは不要だと言うだろう。

Dさんの仕事は、世間で言うところの「立派な」仕事である。立派な仕事をしているのだから、もっと自信を持っていいと思う。

彼は、周りを批判しているが、自分が見える世界が、鏡だということに氣がついていないのだ。批判しているように見えて、自分の不足分を映し出しているのだ。

なんともったいないことだろう。

嫌なら、仕事を変えるか、考え方を変えるかするのがいいのだが、彼は私に負の言葉を延々と言うのみ。

だが、私は他人の感情のゴミは拾わないことにしている。

負のエネルギーに巻き込まれそうになったら、光のイメージで相手をブロックする。

私にとっては、良いイメージトレーニングの練習台と思うことにした。

周りに対して不満ばかり言っている人は、自分が周りに同じような態度をとっている事に氣がつかない。

常に前向きに、光を与えようと努力(思う)する人は、不満を、満足に近づけていける人だ。

ちょっとした、不便な環境を、いかに自分の理想に近づけるか。

Dさんを見ていると、世間一般でいうところの立派な職業なのに幸せを感じていない。

「安定した仕事をしているから幸せというわけでもない」

「●●をしているからと言って幸せを感じていないんだな」と

あらゆることが見えてくる。

私は、彼は衣食住には欠いていないが、幸せではないのだろうと思える。

幸せになるのに必要なこと、それは、自分で幸せを感じる、その感性が大事なんだと改めて、思い知った。

逆を言えば

幸せになるには自分の覚悟さえ、あればいいのだ。

少なくとも、周りがどう言おうと、

幸せなんだ~~~と考えておけば、真の幸せは、後からついてくる。


脳をだます

ren091210

手相を拝見して、運気の流れを読むのは、あっけないということは、以前から言っている通り。手相は己の思考が表れたものであるから、「これからなにか良いことありますか」「××才ごろに出会いがあって…」という具合。悩み事があるとどんな展開になるかという傾向を読んで、少しでも良い方向へ持っていく方法を提案する。が、提示される情報が極端に少ない場合、隠し事などがあれば、読み取るカンも鈍るのは否めない。また、傾向をお話しても、既に本人の内面で答えが出ている場合も、私の「読み取り」は確認作業となる。

自分で、これからどうしたいのか?

どうしたらよいでしょう?とたずねられると、「このままだとこうなります」と予想する。

それを受け入れるか? その結果は避けたいのか。自分で決められなければ、流されるままとなる。

だから、決めてしまおう!傍から見て、「図々しいわね」「できっこない」という展開でもいい。

思うだけは無料だ。誰に迷惑がかかるわけがない。

テレビで脳梗塞で倒れた学者が、鏡を使って自分の脳をだまし、麻痺した右手を動かし、奇跡的に回復した話を見た。

脳は、騙される。どうせ騙すなら、良い方向へ騙してしまおう。思考が変われば、手相の線も変わってくる。

弱弱しい運命線が太くなり、深い内面からの警告で切れていた線も繋がる。

不運続きで疲れていたら、小さな達成感を積み重ねて、自分にOKを出してみよう。

人間は、結局、自分の運を上げてくれそうな人間に集まってくる。同情されて優しくされることに慣れてしまうと、運は先細る。

どうせならば、運を人と分かち合い、循環させると決めてみてはいかがだろう。

転んで、泣いて、泥だらけになっても、笑っている人に、人はかけより、手を差し伸べてくれる。

周りのせいにして、責める人間には近寄りがたい。

悩みは、悩みの向こうにある「何かを」好転するさせるために存在する。

それでも悩み続けたい人も、存在するけど。

それは、それで悩む本人の人生のテーマなのかもしれない。

 



山場越えました

トンネルを抜けると、雪国だった…。なんて文学的な表現をしてしまいたくなる。今日は2月の上旬。ワラジを何足か履いている私ですが、どうやら山場を抜けたと思います。

第1のバイト先のデータベース関連と月初めの作業が。第2のバイト先のイベント受付関連、第3の手相見関連、第4の天然石関連が、集中して来ていたのですが、過ぎたようです。この感覚は昔の原稿を書いていて終わった、「脱稿した~」という感覚に似ています。

本日以降、平日の手相拝見も午後5時以降可能となり、土日は午後4時以降で、よろしくお願いします。

毎月10日を過ぎると、余裕も出てきますので、どうしても午後2時から、なんて場合があれば、まずはご相談ください。

拝見数が増えていると、意外なところから意外なつながりで、拝見している方々がつながっていると知らされ、私自身驚くこともあります。もちろん顧客情報は守秘義務ですので、ご安心を。

先日は、節分でした。皆さん、恵方巻きに豆まき、されたでしょうか。

私の最近増えたバイトは、某所での節分祈祷の受付だったのですが、申込書を見ると、我子や孫、親兄弟の無病息災、交通安全などの願いを目にすると、案じてくださる人の存在するありがたさを感じました。

自分がこうして生きていられるのも、知らないところで祈ってくださる方があればこそ。

本当に「おかげさま」だと思います。

孤独を感じたとき、辛いとき、周りに味方がいないと思えたときも、きっと誰かが遠くで、あなたの無事と安全と平和を祈ってくれているに違いないと、確信しました。



手を握ってみた

先日見た、不思議な夢を記しておきます。 寝るとき、頭の上の位置には箪笥があります。 空間はありません。本当は頭上のオーラやチャクラのために、少し空間があれば良いのだそうですが、私の部屋は狭いので、そんな余裕はありません。 夢の中で私は、頭上に手を伸ばします。 すると、誰かの手があり、わたしはそれを握ります。感触から女性の手だとわかりました。 誰の手だろう、と思いながら目がさめかけ、もう一度、うっかり手を頭上に伸ばして、存在する手を確認して握ります。今度は、女性の顔が浮かびました。 変だぞ、頭上には空間はないはず。と思い出し、さらに確認して握ります。 そこで、目が覚めました。 伸ばしていた手は、もしかしたら、私の霊体の手が、背後霊の手を握ったのかも。 前回は男性だったが、頭上にいるのは女性のようです。 霊には性別が無いので、女性性があると判断しました。 ヘミシンクは続けることに意味があるので、寝オチしても、しなくても続けてます。 ヘミシンクの最中に、大きな光を見ることがあります。紫色や黄色など様々です。 このところ仕事が忙しくて、早朝にヘミシンクをすることがないので、成果はありませんが、気長に続けます。 このところは、ヘミシンクしないと、気持ちよい眠りに就けなくなったような氣がします。 眠りの質に貢献しているのは事実です。