手相を拝見して、運気の流れを読むのは、あっけないということは、以前から言っている通り。手相は己の思考が表れたものであるから、「これからなにか良いことありますか」「××才ごろに出会いがあって…」という具合。悩み事があるとどんな展開になるかという傾向を読んで、少しでも良い方向へ持っていく方法を提案する。が、提示される情報が極端に少ない場合、隠し事などがあれば、読み取るカンも鈍るのは否めない。また、傾向をお話しても、既に本人の内面で答えが出ている場合も、私の「読み取り」は確認作業となる。
自分で、これからどうしたいのか?
どうしたらよいでしょう?とたずねられると、「このままだとこうなります」と予想する。
それを受け入れるか? その結果は避けたいのか。自分で決められなければ、流されるままとなる。
だから、決めてしまおう!傍から見て、「図々しいわね」「できっこない」という展開でもいい。
思うだけは無料だ。誰に迷惑がかかるわけがない。
テレビで脳梗塞で倒れた学者が、鏡を使って自分の脳をだまし、麻痺した右手を動かし、奇跡的に回復した話を見た。
脳は、騙される。どうせ騙すなら、良い方向へ騙してしまおう。思考が変われば、手相の線も変わってくる。
弱弱しい運命線が太くなり、深い内面からの警告で切れていた線も繋がる。
不運続きで疲れていたら、小さな達成感を積み重ねて、自分にOKを出してみよう。
人間は、結局、自分の運を上げてくれそうな人間に集まってくる。同情されて優しくされることに慣れてしまうと、運は先細る。
どうせならば、運を人と分かち合い、循環させると決めてみてはいかがだろう。
転んで、泣いて、泥だらけになっても、笑っている人に、人はかけより、手を差し伸べてくれる。
周りのせいにして、責める人間には近寄りがたい。
悩みは、悩みの向こうにある「何かを」好転するさせるために存在する。
それでも悩み続けたい人も、存在するけど。
それは、それで悩む本人の人生のテーマなのかもしれない。