老いる自分について

私にとっての大きなイベントである夏至が過ぎて、冬至が待ち遠しい季節となった。

年に一度の定期検査では、甲状腺の良性腫瘍が、数は減っていないけれど、大きさが小さくなっていたので、ひとまず来年までは安心となった。ヘミシンクのCD「T細胞を巡る旅」を聴きながらイメージトレーニングをしていたので、効いているのかも。薬じゃないので「効いた」と書ききれないところですけど。

自分で自分の健康はイメージトレーニングで補っていこうかね。

年齢を重ねると眼は老眼になるし、耳も聞こえづらくなる。

年を重ねると、経験から見えないものが見えてくるから、実際の視力が落ちても良いんじゃないかな。

耳の調子が良くない場合も聴かなくていいことを聴かなくても済むと割り切ってしまおう。

ま、言うのは易いけど、一歩進んで二歩下がる状態だけど、そう思うことにした。

体の不調は、年齢的に あって当たり前だと思っているから、多少の検査結果の悪い数値はあまり氣にしない。

もちろん、健康なのに越したことは無いけどね。

今まで生きてきたんだから、不調な自分も受け入れる。

老いるという言葉にはマイナスのイメージがあるが、意味は違うだろうがアンティークとか熟成とか良い意味にとらえていこう。

老練していると思って、そうやって自分自身を納得させていくのだ。

若さと引き換えに得たものがある?

それは、限りあることが救いだと知ったことだ。

苦しみも辛さも永遠に続かない。この世で唯一平等なものは

時間であり、そして死である。

自分の体を労わり、ほどほどに暮らしていこうと思う。



天然石+(Plus)への道

氣がついたら、夏至が過ぎていました。冬至が待ち遠しい季節が始まりました。

闇夜でコケた傷、まだ完治していません。今は怪我がかさぶたにならないような絆創膏の時代なんですな。今回の怪我で、膝の擦り傷は全治1週間以上ってことがわかりました。

でも、バンド●エイドは、お高いのでそろそろお安いのに変えようと思ってます。

手相見を休んで、天然石のあれやこれやを作っているうちに、夏至が…(以下略)。

自分としては、手相見に天然石が付いているという感覚だったのだが、これでは天然石のおまけに手相見が付いてくる!というのが実情。そのうち、天然石+(Plus)というブログ名に変わるかもしれないなぁ。という思いが脳裏によぎる。でも面倒だからもう変えない。

手相を拝見の際に、ブレスレットの依頼も承ることが多くなっているのは事実である。

天然石は魔法の杖ではない。言うなれば、自分自身への約束の証である。

手相見は、これからの生き方の地図のようなものだから、目的までの標として活用していくのが良い。

それから、最近、自営業の方からの依頼が多くて、受けた印象をざっと記しておく。

良き言葉に良き運氣は導かれる。

「無理」「ダメ」「面倒くさい」「殺す」(←冗談だけど実際に言われた。笑)等、マイナスなエネルギーを宿す言葉は、避けるが得策。

口癖のように使っていると、言霊がその運気を呼び寄せる。

お金が無い は「手持ちが無い」と言い換え、力技でも良いので、良い言葉を選ぶこと。

商売をしているなら、ことさらで、運気が悪いと思っているなら、なおのことである。

自分自身が、その状態を招いているというのなら、良い方に考えたほうがお得。

自分もうっかりマイナスの言葉を口にしてしまう。

そういう時は「キャンセル、キャンセル」と言うと良いらしい。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」五日市剛 著 より。

気をつけねば。

自営業は、自分が王様なのだから、自分の王国をもっと幸福にしてほしい。無理はしない。自分を大切にして欲しい。

好きなことを、好きなときに、好きなだけやれる。

頑張った分だけ自分の力になるのだ。

うらやましいぞ。



闇夜に足コケ

私は昔から、運気の変わり目には、足コケる。なんの変哲も無いところで。

高校生のときは校舎の階段を踏み外して捻挫した。それから捻挫が癖になって悩ましい。亡父の入院のときも何の変哲もない坂道で足を踏み外した。

足裏が内出血で真っ赤になったけど、病院にいかずに済んだ。

たぶん剥離骨折していただろうと後で、医療に携わっている友人は語った。

当時父も骨折で入院していたから、私まで入院するわけには行かない、というワケのわからない気概で、通勤を続けた職場の階段を踏み外してもう一方の足首を捻挫したという…笑い話のような展開が待っていた。

一時、両方の足に湿布をして通勤していた。なんとかなると思っていたから、なんとかなった。

人間最後は気力だと思う!

もっと後に霊感のある知人に「私、足をよく怪我するんですよね」と話したところ、「煉さんは、歩きながら霊道(別の次元の空間)に足を踏み入れているので、あちら側から蹴り帰されるんですよね」と言われたことがある。

高校生のときは保健室の先生に「足が地に着いていない」と言われた。別の言葉では離魂病(りこんびょう)と言うらしい。

私は歩いていても、足に注意を向けていることが多い。それは住んでいる街が、冬に道路が凍りつき転倒の危険があるからで、事実、友人の中には転倒して、背骨を圧迫骨折したり、別の友人は後頭部を打って生死の境まで行った人もいるし、大腿骨を粉砕骨折した人もいる。

前置きが長くなったが、昨日の夜、近くのスーパーに買い物に行って、帰宅するとき、歩きなれたなんの変哲も無い道でコケた。

コケだけで、こんなに前置きの長いのはどうよ。

右足に違和感があり、ぐらりと来たとき「ヤバイ、また捻挫するかも!!」ととっさに反対側に膝をついてコケたのだ。

不注意だと、嘆くのは簡単だが、幸福を探査中のワタクシにはもっと深い(こじつけ)な考えをすると。

帰宅して見ると、ジーパンの膝が横一直線に裂けていた。そりゃもう、見事なくらい。裂けた部分だけみると、「カマイタチ」を連想する。

幸いにも、今回右足は捻挫にならなかった。

左ひざに擦り傷を作り、少々出血したが骨は無事。傷口を洗ってオロナインを塗布して寝た。痛みも少ないし、今朝手当てをしたら出血もとまっていたし腫れてもいない。痛みはこの世に自分をとどめる手段かもしれない。そうでないと意識があらぬところに飛んでいくから。

今月は、思い切って手相見をお休みして良かったかも。怪我もしたけどそういう時期なんだと考えることにした。転んでもそれを力技でも良い方向に考える。そのほうが、悪い方向へ考えるよりずっと良い。悪く考えると悪い考えにずっと引っ張られてループする場合がある。

私の父は、「病弱な自分」が大切な人だった。自覚していたかは知らないが、病弱でいることが、周囲の人に大切にされ、家族に愛される手段だと考えていた節がある。

病弱な自分でいるより、病弱でも自分の体を労わっている姿勢のほうが周囲から愛されるだろうに。

病弱でいるためには医師に止められているお酒もタバコも自分でやめられないようだった。

人間、自分の健康に神経質になっても、死ぬときは死ぬ。それは運命だから。

なにごとも極端はよろしくないが、健康に神経質になってしまうよりは、ちょっと緩く考えてもいいと思う。病気の自分を怖れるより、受け入れる。少しの体調不良も受け入れるっていうのが、年齢を重ねた人間だからこそできるのかもしれません。

病気じゃないけど、今回の怪我も自分をツイテイナイと言い切るよりも「この程度で済んでよかったわ」と思うことにしている。

え、やせ我慢?いいえ!!運が良かったんです!!

いいんです。私自身がそう思っているから。

 



出た!バイト先で

土日もアルバイトに出かけていましたが、出ました。

出たと言っても「霊」ではなくて、スズメバチ。ある意味、「霊」より怖い。体長4センチくらい。気持ち的には5センチに見えた。羽音が聞こえたとき、思わず携帯のマナーモードのバイブレーションの音かと思った。

狭い室内で、ハチはパニックになり、欄間に体当たりしたりして、飛び回る。

進入したと思われる窓は低い位置にあるので全然、出て行けない。

スズメバチは怖いけど、下手に動いて攻撃されたら困るので、霊と同じ対応をした。

それは「見ないふり」。

でもなかなか出て行けないんだわぁ。ハチは疲れて、窓枠や、電灯の傘に止まって少し休む。

また出口を探して飛び回る、を1時間ほどしていた。膠着状態。

その日はデータ入力業務が多くて、事務室を出て行くわけにも行かず、聞こえる羽音に怯えながら、ついに意を決して、天井近くにある排煙用の非常窓を開くレバーを引いた!が、なんと古すぎてレバーが引けない。なんだぁ!? 役に立たん!!

再び、打開策を求めて、窓を開けて、お引取りを願ったが、ハチは全然、氣がつかない。

その姿を見ていて、ふと思った。

困ったとき、視野が狭くなっていて、ちょっと余裕を持って周りを見れば、いくらでも出口(解決策)はあるのに、眼に入らない。そんな人間の姿がハチとダブって見えた。

そうこうしているうちに、強攻策を施した。それは箒でハチを出口まで誘導するということだ。

自力で何とかできない場合、そういう大きな力が働く。それが箒(のようなモノ)。

逆襲されるかも、と怯えたが、大きな箒で、無事にハチを出口まで誘導して、ハチの悩み(?)は解決。

5分後、壊れた欄間から、再びハチが迷い入って来た。近くに巣でもあるのかも。

しかし今度は、解決のコツがつかめたので、ハチを祓う(意味ちがうけど)のに成功。

事務室はほぼ密室であったから、その中でスズメバチと1時間もいたけど。

ハチはやたら攻撃的ではなかったので、良かったです。

これは、「霊」も同じような感じ。そこらにいるけど、そんなに攻撃的な存在は少ないと思う。

ハチはあんなにカロリーを消費するような飛び方しているので、たまに窓枠に止まったりして。

「少し休むんだぁ~」と遠くから見てました。

あまり、下界(私の座っているところ)には関心がなかったよう。それも助かった。

箒=手相見として、依頼者に示すことができれば。

手相を見るって事は、出口は導く箒のようなものだろうと再認識した次第です。

5月は、2件だけの更新となりました。

忙しかったのもあるけれど、今回、占星術で自分の過去を振り返った上で、将来を考える機会があり、自分の人生の棚卸しをしていました。

若いときは、星占いって全然当たってない!と思っていましたが、それは、平均的な一般の星占いですね。

自分の体が突き詰めると、星のかけらで出来ていると知ってからは、星の波動が影響しているのではないかと思って、一度きちんと自分の出生時の星の位置を鑑定してもらいたい~と思っていました。過去のことは過ぎたことなので、変えようはありませんが、私の人生はどう考えたって、残り少ないわけです。

で、残り少ないので反省というか、自分の人生を棚下ろしてみようかと。

手相見とは違う、霊感とは違う視点から摺り合せてみようと思ったのです。

過去の運勢リズムを振り返って、これからの自分の運勢リズムをいかに生かすかをじっくりと考える月となりました。

すると、やはり手法は違っても、運気の流れは示されていることに感動しました。

示されているものは、良いタイミングで来ている。

求める自分の直感に、確信を得た5月でした。