月: 2015年5月
夢見の話
本日の午後、ある方から届いたメールに「西の空を見て」とあり、窓から西空は見えないワタクシ、外に飛び出して見たところ、太陽の横にほんのり虹(彩雲)が見られたので、携帯で撮影した。
この写真だと、虹ははっきり見えないが、太陽(左端)と並んで、もうひとつ、太陽のようにも見られないこともない。彩雲は、昔から吉兆と言われるが、太陽が二つならぶとは「幻日(げんじつ)」と言われて天変地異の前触れともされる。良い事しか信じたくないので、ここでは彩雲ということにしておこう。大気が不安定なのか。
ついでに今日の明け方、見た夢の話を記しておく。
自分の住んでいる次元、宇宙空間から飛び出し、外から自分の住んでいる次元(宇宙)を見る、という夢。
夢の中の三次元宇宙はピラミッドを重ねたような、ひし形、映画「天空の城ラピュタ」に登場する飛行石のような形状をしており、銀河系はその上の端にあった。私たちの住む銀河系は三次元宇宙の辺境に位置し、さらに地球の属する太陽系は、銀河系の端に位置していると確認する夢だ。
先日、エドモンド・ハミルトン著 古典SFの名作「フェッセンデンの宇宙」を再読したので、その影響かも。
銀河系の中央には、セントラル・サンという部位があり、(レンズ状の銀河系の中心部。恒星の集合部分)そこから放出されているエネルギーが、この太陽系の太陽や地球に影響を与えているという学説があります。
最近、私が西洋占星術に興味を持っているのは、占い、だけではなくて、星のエネルギーが人間の行動に影響しているかも、と思ったのがきっかけです。
この世には見えないもの、一例として電磁波ですが、道行く人の多くが、スマホの画面を眺めている姿をみかけると、まるでお告げを待っているかのような印象を受けます。
電子レンジの電磁波は、眼には見えないけど、確実に食品を温めてくれますよね。
微弱な電波が、人間の脳になにがしかの影響を与えないとは誰も断言できないでしょう。
それが、良い方に現れるか、悪いほうに現れるか。誰にもわからない。
そう考えると、前人未到の世界が広がっているのを感じます。
6月、石は翡翠、あるいは緑

ご縁があったら
小学生のとき、通学途中にある立派な大木があり、季節になるとたくさんの実をつけていた。枝にたわわに実った胡桃を摂ろうとして、樹によじ登り、ご近所のおば様に「危ないよ!!」と叱られたのも今となっては良い思い出だ。
食べても美味しい、見ても楽しい。胡桃は一番身近な自然界の恵みだった。
その拾った実の筋を取り、布で磨いて宝物にした。
やがて大木は伐採されて、その後にはおしゃれな家が建った。この胡桃の実は、大木の忘れ形見でもある。
社会人になってからも、公園にある胡桃の木から実が落ちていると、拾ってしまう。胡桃の実は、私にっては郷愁のアイテムだ。
お気に入りの雑貨屋さんで、見かけた瞬間から氣になっていたのは、これがオニくるみの殻から作られたインクだと聴いたから。胡桃からインク?衝撃である。そのうえセピアの色に惹かれた。 購入したとき、インクの作成者さんのお話も聴けた。作った年によって色味が変わってくるという。なんということだ。胡桃は実は食べられるし、見ても楽しいし、インクにもなる。恵の多い存在だ。
この年齢になっても、知らないことってあるんだわ。
最近は、忙しくて天然石アイテムには説明カードをつけていないが、このインクとツケペンで、石の名前を書いてみたいと思った。名前だけね。由来は今までどおり備忘録に記します。
5月は慌しく過ぎてしまった。タイミングが合わず、手相見もお断りばかりして申し訳ない。
6月からは、来年にかけて土日祝日限定でしか拝見しない予定です。
ご理解いただけたらありがたいです。
このところ、数年ぶりにメールや電話で問い合わせくださる方々がいらして「まだ、手相を見ていますか」と尋ねられることが続くのも偶然とは思えない。そんなに必要はないけど、数年に一度見てもらいたい~という、そんな手相見が私の立ち位置でイイトコだろうから。
これが、数年、手相見をしていた私に対する「答え」なのかもしれない。
手相見の需要がなくなれば、自然にフェードアウトすることになるだろう。
私の運気は次の段階に来ているようだ。
ご縁があったら、お会いいたしましょう。
次の展開も模索中。というか探査中。
その一押しに必要なもの
占いが氣になったりするのは、未来に希望が欲しいからではないでしょうかね。
人間は未来に希望が持てないと絶望しかないと、生きて行けないのじゃないかと思うのです。絶望だけ、になると自暴自棄というか、周りも巻き込んだり不幸のスパイラルに突っ走ると言うか、破滅へまっしぐら、となるのでは。
手相を見て欲しい、という人に「未来が不安」という方は多いですが、「幸せで最高!」や「どうでもいいぐらい絶望してる」って人はいません。「幸せだけど、心もとない」とか、「不幸だけど希望が欲しい」人が占いに足を止めるのでしょう。
占い師の言葉を励みにするとか、糧にするのが、良い利用の仕方でありますが、占い師の言葉に自分の人生の全てを託すのは正しい使い方ではありません。自分の人生の主役は自分で、こればかりは誰にも代わりにはなれません。ドイツの精神学者 フロイトやユングの言うところの「集合的無意識」で他人と繋がっているというのなら、他人の幸福は自分の幸福とも考えられますし。
スポーツで例えると、ゴルフでボールがカップにインしそうでしない、カップの淵を滑って行ってしまう場面や、テニスでボールがネットのヘリを転がってしまう場面を想像してみてください。
崖っぷちにつま先立っていて、あと少しのバランスを崩すと落ちてしまいそう!!な場面でも良いです。
あと、もう一押し、見えない力が欲しい!!、もう一息踏ん張りたい!!
というときにお役に立つのが、占いであり、そのための開運グッズだと思うわけです。
「運ばかりあってもねぇ」と、ある人に言われましたが、まことにそのとおりで、運を引き寄せるには自分が少しでも動かないとならんわけです。
もう一息、運の一滴があれば、化学変化を起こして、劇的に流れが変わることもあるんです。
長いこと生きていると、そういう場面を幾度も眼にしているし、体験もしています。
自分が運気、どん底だわ~、もうダメかもしれない…死にたいわぁ と思ったとき、TOKIOの「宙船(そらふね)」という歌に惹かれました。中島みゆきさんの名曲です。
「おまえが消えて喜ぶものに おまえのオールを任せるな」
喜ぶやつがいるかどうかはわからないですが、自分のオール(希望)を放り投げるのは、まだだ~。と思いなおし、加えて占いも活用しました。
自分の気力、あと一押し、欲しい!そのときに。
探し物を求めて~内面の旅へ
毎年、GWは紙に埋もれている氣がする。今年は桜も、去年より早く咲いた。連休中は、それなりに忙しく過ごした。デスクトップPCを開いてのホコリ除去もこのシーズンに行う。
身辺のゴミを片付けていた。
私の人生の大部分は紙ゴミとの格闘である。私の周りに紙ゴミが多いのは、幼い頃からの趣味でイラストや漫画を描いていたからだ。
漫画のネタを紙に書き留めるのはクセのようなものだ。
モノを持たずにシンプルに暮らしている人に憧れるが、それは叶わぬ夢だと思っている。
書くことは、紙=神 に通じる行為で、記憶するのも紙、想いをまとめるのも紙がなければならぬ。紙のない世界では暮らせないだろう。
絵でも文でも紙に書くと言うのは、脳の中の異次元から、この世に具現化するための儀式のようなものだ。で、あるからして、今も夢を見ると、紙切れに書き溜めているので、散らばった覚書を整理し、ノートにまとめて転記したりした。
本棚の本もかなり捨てたと思ったが、まだある。本につぎ込むお金を計算したら、切ないので考えないことにしている。本代は、亡き父が酒代につぎ込んだのと変わりない…と思いたい。
結局「保留」の箱にはまだ、メモが大量に入っている。私にとっては捨てがたい存在であるが、他人様から見ると、ただのゴミだというのが悩ましいところ。結局、幸福とはなんぞや?という極論まで行きつける。
メモを見て、書いた頃の自分を思い出したり、夢日記をまとめながら、その時の夢の啓示を確認したりした。私の人生のテーマは「探し物を求める旅」
そして、人生には閉じた扉がいくつかあり、それは今世では開かない らしい。
…個人的な希望としては、来世は地球には生まれてきたくない。
モノの本によると、「生まれ変わる」というのは、未来もあるが、宇宙的な時間軸の関係で、過去に生まれ変わったりする場合もあるという。過去は、ご遠慮したい。今世だってもうゴールを目指して淡々と生きていくエネルギーしか残ってません。
氣がついたら、5月も半ば。
バイトの都合で申しわけありませんが、手相見のご依頼の日取りは20日以降でお願いします。