私は、つねづね、「お告げ」というか、天からのメッセージは、明確に脳裏に示されるのではなくて、あたりの事象や他人の言葉から示されると思っている。聖書を学ぶ人が、神とは、はたらきである、と話していた。それは、神は目の前に出現するのではなくて、その人の前に展開される事象に宿り、目にすることによって、人は動く。
私はクリスチャンでもなければ、敬虔な信徒でもないが、ある日、浴室で体を洗っていると、目の前にある虫○○が現れて、ひどく驚いた。慌ててお湯をかけて、けん制し、湯船に逃げて周囲を見回し、安堵したのもつかの間、壁に○○はいた。敵は動きがすばやい。
入浴中につき応戦する道具はないし、手づかみなんてとんでもない。
殺○剤を噴霧したら自分も死んでしまう。
○○も身の危険、殺気を感じているのか動かない。私は壁にいる○○を凝視しながら髪を洗い、体を洗ってバスタイムを終えた。生きた心地がしなかったというのは大げさか。
母は、○○は平気な強者であるが、○○は母の目の前には現れなかったそうだ。
そこで、私は、考えた。その虫、(以下○○)が、世の中一般に、嫌いだという人が多いのであるが、その○○ではなく、蝶であったなら、こんなに恐怖を感じなかっただろう。それどころから「なにかの使いかな?」くらい思っただろうか。
そんなに怖くて、目にするのも苦手な○○なのに、お風呂に入っている間中、壁の○○から目が離せなかった。見なきゃいいのに。
傲慢な物言いが許されるならば、
「○○」は嫌いだけれど、襲ってくるわけでもない。強いて言うなら存在自体が不快なだけであるが、嫌いなものほど目線をやってしまう。
怖いもの見たさ?恐怖があるので、次の動きが気になるのだ。冷静に考えれば、こちらのほうが強い存在なのに。
冷静に考えると、嫌いなんだから見ないでいればいいのに。見てしまうんだな。恐怖の対象を。いやだいやだと思っている存在に心を支配されて時間も費やしている状態だ。実にもったいないではないか。
もし、かの「○○」が金運が上がるシルシだったとしたら、少なくとも気分的にはラクだったのではないか。と思った。
人間関係もそんなものではないか。イヤダイヤダと言いながら、嫌な存在を注視してしまう。嫌なら視界から外せばいいのだ。
また、嫌な存在を幸運を呼ぶ存在として、位置付ければ、少しは気持ちが楽になるんじゃないか。そういう心理的なガス抜きを上手にみつけていけたら、少しは違う風景が見えてくるのではないかと思ったのだが。
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