桜が咲きました

久しぶりに、晴れて、気温も上昇。公園の桜も満開で見ごろとなった。桜の色は、見る人を幸福にしてくれる色だと思う。

桜の花びらを、樹脂に封じてみると綺麗なペンダントにできるかも。

芝生にはタンポポが黄色い絨毯のよう。

そして、本日は満月。ウエサク祭り。天と地のエネルギーが繋がる日である。石の浄化や瞑想に良い日だそうだ。

私は今まで、手相見が本業で、天然石は副業のような位置で考えていたが、現在、忙しいのが天然石関係。手相が副業のようになっている。

以前、ある方に、「手相見が本当の仕事です」と言われている。

実際、天然石では利益は出ていない。収支を計算しても、依頼を受けて石をたくさん購入していても、代金はすぐに次の石を仕入れるためにまわしている。循環はしているけど、余ってこない。

で、石の在庫は、できる限り持たないようにしている。

採算を考えてしまうと、うまく回らないのが正直なところ。ほとほと商才がないのだと思う。

先日、夢で、水槽に入りきらない白い魚が出てきた。

大きな白い魚は、私のところに来ている金運と思われる。

でも 水槽=私の器には入りきらない。

水槽の中には並みサイズの金魚が2匹=いずれも手相と天然石を表しているのだろう。

ビッグウェーブ(白い大きな魚)が来ているのに、私の器は対応し切れていない。今こそ、意識の変換が必要な時だと夢は告げているのだ。

思っていたところ、譲り受けた宝石関連の書籍の中に、「宝石商入門」のコラムを見つけた。書籍は今から30年以上前に出版されたものだった。

私は宝石商ではないが、他人様からお金を預かって石を購入している。商いの才には疎いので、どこに気をつけたらよいかという点で、勉強になった。

30年前は、石よりもガラス細工に興味があった頃。手相を誰彼かまわず、見始めた頃だ。

あの頃の自分を思い返すに、今自分が他人様から望まれて手相を見ていたり、宝石ではないけれど天然石でモノを作っているとは、微塵にも思っていなかったな。

書籍を頂戴したのは数年前であるが、アンテナを貼っていないと気がつかないことが多いと痛感する。

手相を見ることも、天然石のアイテムを傍に置くということも、根本では同じと言える。

他力ではなくて、自分で自分の幸福を見つけに行く。

天然石のアイテムが、直接働きかけるわけではなくて、目にすることで自分の意識が変わる、それで、思考や行動が少しずつ変わって、やがて運勢を変えていくことに通じるのだ。占いにも石のパワーに全面的に頼り過ぎないで、うまく支えあって、次の展開が見えてくる。そのことに気づいた人が、天然石のパワーをうまく引き出せるのではないか。

私は以前、私にブレスレットを依頼してくださった方から、「もう石には頼らない。今は石にお金は使えない。もったいないでしょ」と言われたことがある。石は彼女にパワーを貸してくれなかったのだ、と思った。正直なところ、ブレスレットには利益はつけておらず、彼女の希望予算で、力のある石を探し回った手間も時間も、加えていなかった。私は自分の力の及ばなかったことに落胆した。

でも、それは違うと気がついた。思うに、彼女は石の力に依存しすぎて自分の力を出さなかった。だから”何も”変わらなかったのだ。私は、自分の非力さを感じましたが、それは石に対して失礼だったに違いない。落ち込むなんて、何様だ。私は通りすがりの手相見で、なんの力も無い存在。石の価値を正当に評価していなかったのだ。私は私の時間も手間も評価していなかった。それは、一見、良いことのように見えますが、依頼主にも石にも良くないことだった。良かれと思っていたのは、私の自己満足だったにすぎないのだ。

実際、ブレスレットの値段を希望通りにしようと思っていて、思うところがズレていた、良いことでは無かったのだと、気がついた。

実際、値段で、ものの扱いを変える人もいる。

でも、私の作ったものは石の選ぶ手間も時間も、プライスレス。それには価格ではなくて、願いがこめられている。

手相見の時間も定まっていないのも、同様だ。

今まで、多くのアイテムを作成しているが、ふと、ワイヤーやゴムが切れたであろう石たち、海や山で消えた石たちに思いをはせるときがある。

私の手を通して渡った石には、「石との約束」が生きている。ワイヤーが切れたり、壊れた石たちは、私の元に修復を依頼されなくてもかまわないが、縁あって手元に来た存在として、氣にかけて欲しいと願っている。



切れる糸の不思議

3月末から、私の周辺ではゴールドルチルクォーツが小さなブームです。持ち始めた人がツイている、というので、口コミでお買い求めいただいたところ、ワイヤーが切れる人が続出。ふつうの手芸用のナイロンコートワイヤーではなくて、切れにくいといわれるフレックスワイヤーを使用しているのに、最短で3日、最長で1ヵ月半で切れてしまう。切れない人は全く切れないのですが。

直すためにお預かりして、観察してみました。

同じ環タイプの形状で、同じ大きさの石を用いているのに、それぞれワイヤーの切れている部分が違うのです。

各々エネルギーのかかる部分が違うような印象です。

以前、私の作った品をお買い求めくださった方が、煉さんの作成したものと持ち主の波動が合わないと切れやすくなる、とお話してくださったことがあります。

銀リオンさんのブログ 2010年5月14日付けの記事

■紅乃 煉さんのコレクション

パワーの強い石を受け入れるときにおきることらしいですよ。

 

波動というか波長が合う過程で切れてしまうのかもなぁと思いつつ、近所の釣具店へ。ナイロンより丈夫だという釣り糸を購入して、それで組みなおしました。

ワイヤーが切れたくらいは、まだ良いのかもしれません。波長が合わないと、海に沈んだり、川に落としたり、氣がついたら手元から消えていたりするのが多いのです。

ワイヤーきれても石が手元に残ったら、その石とのご縁はまだ切れていない。たとえ消えてしまっても、石は持ち主の願いを受け止めて自然に還っていったと思うのです。

実際、手元から石は消えてしまったけれど、不思議と困っていた状況が好転した、というお話は少なくないのです。

ここからは見た夢の話。

新しい女性の同居人がやってきました。

狭い私の部屋を区切って、暮らすことになりました。

女性は、自分は双子の女の子を故郷に置いてきているので、早く帰りたいんだけど、と私に告げます。

私は、窓側の空間を自分の部屋に主張して、部屋の中央を本棚で区切ります。

夢って不思議。なんの脈絡もなく、現実的で非現実なシーンを区切って見せてくるのです。

背後霊が交代したのかもな、とも思いました。

今の背後霊は、双子の子供を持つ、豊穣の女神さまだったら良いなと勝手に妄想しています。

 

 

自分の中から見つけてみる

運気の変わり目を感じることがある。

最初に感じたのは10年前に病のため入院した時。手相を見ることが他人様に必要とされているのかなとぼんやり思ったとき。

最近気がついたのは、自分の手相見はたいしたことがないと思っていたけど、他人様にはそうでもないのかも、というのが続いたとき。

私的には、趣味の延長で始まった手相見と天然石関連のあれこれが、他人さまに喜ばれるというのは、なんとも不思議な感覚のままだ。

自分の好きなことで、お金が稼げれば一番良い。

ほかに自分では普通にできることで、大したことではないと思っていることでも、他人から「デキル」と言われたことに、お金を得ることができる種がある。種に気がつき、育てるかどうかは、自分次第。

種を見つけるためには、自分の内外にアンテナを鋭敏にしておくことが必要だ。

明日も今日と同じだと思い込んでいる、あるいは昨日と今日は同じこと、という思い込みを持っていては、「種」は見つからない。

種を見つけるという、気持ちが大切だから。

手相を見るということは、依頼主の中の「種」を見つけること。私は自分に対して必要な「お告げ」は、他人の口を通して伝えられるとも思っている。その「お告げ」に気がつくか気がつかないかは、そのアンテナの感度にかかっている。

過去に囚われていては、未来は過去に引きずられたまま。

建設的な生き方を選んだ人は未来に生きることになる。

私は手相を見ることで、ちょっと未来の流れがわかる。

未来がわかった時点で、運気の流れは変化する。

私の尊敬するある人が語っていた言葉を引用(意訳)してみる。

「苦しいことがあったときは感謝しましょう。それは成長のためです。

迷いがあったときは感謝しましょう。それは運命を変えるチャンスです。

悲しいことがあったときは感謝しましょう。それは心を強くするためです。 」

今、辛いこと、迷っていることがある人は、それをきっかけにして、良い運を引き寄せることができる。

他人をうらやんでいる時間はない。

自分のために自分の開運の「種」を探してみよう。それは、自分が他人から言われた言葉から、見つける。

あるいは 自分のしたいことを、とりあえず、試してみるのだ。

小さな決心

写真は、でかけたカフェで委託販売されていたネコ型サシェ。ラベンダーの香りがとてもよい。可愛い上にお値段もとてもお安くて、なんと135円。

「良い買い物をした」と喜んだ。しまった、もう少し買って友人に配れば良かった!と後悔。こういう買い物時に、自分の器の小ささを感じてしまう。

次回出かけたときにもありますように。

手相を見るとき、私が相談に乗るのは、流れてきている運気をどう生かすかという視点で語る。聞きたいことがない人にはあっけなく終わる展開だ。あっさり終わるのも、申し訳ないので、話の糸口を掴むために過去の運勢をざっくりと見る。

過去の運気や流れを当てられると、依頼主は緊張から開放されて、色々とこれからの展開が読みやすくなる。

以前、「手相ではなくて、他の占いで見てもらおうと思わなかったのか」とたずねたところ「自分の内面が現れたのが手相なので、自分と向き合うためには、手相が一番だと思ったので」とおっしゃった依頼主もいた。

数ヶ月で激変する手相もあれば、そんなに変わっておらず、読む内容も新しいものがないという場合は、優先順位がどこにあるかと問うて見る。

極端な話、家庭で悩んでいるなら、お子様かだんな様か、自分か仕事か。自分が重要だと思う順に、解決口を探す。

中には話しているうちに、「ずいぶん狭いところで悩んでいたんですね~、私」と自分で解決の糸口を掴んでしまう方も。

話すことで、自分の悩みに向き合い、なんとかしよう!と小さな決心をすることで、良い流れへ転換する人を、何人も見てきた。

おかげさまで、常連さんと思われる方も増えてきたが、手相を見るというより、運気の流れを確認するのが重要になってしまう場合もある。

運気の見方はポイントで覚えると自分でも楽に運気の流れをつかめるので、拝見の初回は「カンタン手相講座」だ。

先日、受けた相談は職場の人間関係であったが、職場の人とはウマくいけば、ラッキーで、うまくいくにはそれなりに気配りが必要。

できない、わからない、と嘆くなら、わかるように本を読んで、対応策をたてる。

または、なにを言われても氣にしないという、決心をして乗り切る。

その決心が2日、3日で鈍ってもいい。もう一度、もう二度と、自分で伸ばしていければいいのじゃないか、と思う。

他人から評価されてもいい。自分も評価されてもしかたない。

でも、他人からの伝聞で、他人の評価を鵜呑みにしない。

自分の目で見て聞いて、自分で評価する。

大切なのは、判定しないってことだろう。

あなたの評価も、私の評価も絶対ではないのだから。

 



桜はまだ

今年のゴールデンウィークは寒いまま過ぎてしまった。

お隣の庭の桜の木は葉もつけていない。昨年の今頃は、通勤路の桜の写真を撮影していたと思ったのだが。

4月から、手相見の依頼も、天然石の依頼も続いており、ブログの更新はカメとなっている中、御訪問くださった皆様、ありがとうございます。

私への手相見の依頼は紹介制なので、初回の拝見するとき、どういうきっかけで御連絡くださったのか、たずねてみると、面白いことに「話を聞いてすぐ」という方は少ない。

だいたい、初めは 話を聞いたときは「ふ~ん」、「へ~」という感じらしい。数ヵ月後、転機(問題発生?)が来たとき、ふと心の中の声が「今だ」と聞こえて連絡してくださるという。

これは、背後霊の導きではないかと思っている。

悩みも様々だが、共通していえることがあるのだ。

それは、人間は、自分に無いもの、得られないものには敏感であるが、持っているもの、得ているものには鈍感である。

以前、読んだ経済の本に

「貧乏人には貧乏人なりの悩みが、金持ちには金持ちなりの悩みがある」とあった。

悩んでいて、苦しい。苦しいから、変えよう、と思わない限り、人間はそのままである。

意識的に意識を変えるというのが、必要な時期に来ている時、私は拝見した相手からも必要な学びを得ているのだと思う。

本人が他人より優れていることには、自覚していないことが多い。

私は、手相を見るが、手相を見ることは誰にでもできると思っているのだが、そうでもないらしい。

天然石でモノを作ることも、誰でもできると思っているが、そうでもないらしいとか。

だから、私から見ると、優れている点が多くある人が、悩んでいるのを見ると、ちょっと視点を換えれば、ずっとずっと活かせるものを持っているのに。

自分の姿を自分自身の目で見ることができないの。そこで私が見つける役割が回ってくるような気がしている。

変わること、希望を得たい人にご縁がありますように。

そして、見つけたきっかけを、依頼主が活かして開運できますように。

手相を拝見するとき、私はいつもそう、祈っている。

風水開運花文字

某月某日、テレビのニュースで、デパートのイベントの紹介があり、そこで行列ができるお店として、「花文字」が紹介されていたのを見ました。

一目見たときから氣になっていまして、札幌までは足を運ぶのが億劫な私、ネットで探してみました。予想以上に多くのヒットがあり、また一口に花文字といっても、個性があるのを知ったのです。

普段、手相、風水、天然石 などの開運アイテム探索人としては、惹かれたからには手にしてみたい。そう思いながらもフットワークの鈍い私でした。

今回、そろそろ、ブログのトップも変えたいわ、と思っていたところ、手相見の依頼や天然石の依頼が続いたのを、「啓示」(大げさですね)として、これからの発展を願って注文させていただきました。

逸書堂さん

花文字は飾るだけで、開運する、と言われます。鮮やかな色彩、華やかな図柄で構成されています。

なによりも、見た目が美しいので、目にするだけで、大変幸福な気持ちになれるのが良いです。

写真では美しく再現できませんでしたが、赤色には蛍光色が入っており、それはそれは美しいのです。

文字「煉」のみを指定して、どの吉祥シンボルの絵柄を配置してくれるかは、作家さんにお任せしました。

図に描かれているシンボルは以下のとおりです。

竹=健康、元気

蝶=幸福 楽しく暮らす

カササギ=福を招く

鳳凰=頂点に立つ

牡丹=良縁に恵まれ 夢を叶える

という意味があるそうです。

お値段も、芸術作品として、そんなにお安くて良いのでしょうか、というくらいでしたが、なによりも、作家の方の誠実なお人柄を感じられて、嬉しいです。

注文した色調の台紙が品切れということで、電話をいただいたのですが

台紙がなければ色紙のみで良いと伝えましたら、在庫の中から選んでくださいました。

22日の夜に注文して、26日に届きました。早かったです。

そして、届いた台紙と色紙の大きくて立派なこと。予想以上です。

梱包も丁寧で厳重にされていて、ここにも気配りを感じられます。

作品とともに とても感激しました。

2度目のお電話をいただいたときに、ブログに載せるお許しをいただいたので

ホームページのアドレスを貼っておきますので、ぜひともご覧ください。

一文字 千円から。台紙、送料は別です。

自分や大切な方への贈り物としても素敵です。

 

手相見のつぶやき

私は手相見。手相鑑定や占いとは違うと自分では思っている。

手相は自分自身の内面を表すものであり、予言ではないからだ。

手相を見始めて、代価を頂戴するようになって、5年め。その数は先日3桁になった。

専業の方には及ばない数だが、こんな小さな街で、この数まで見ているとは思っていなかったな。

手相見で代価を得ると決めたとき、心の師匠から言われたことは、「他人の未来を読むことは、野たれ死ぬ覚悟をすること。嫌なら今までどおり趣味で見なさい」。当時、失業中の私は思いがけず、手相見で代価を得ても、まだ迷っていた。未来を見ればみるほど、その代償は体にくる。見れば見るほど、視力は落ちるし。

けれど、口コミで依頼は途切れずにやってくる。忙しすぎず、暇すぎず。絶妙なタイミングだ。

自分ではたいしたことないと思っている手相見を必要とされている。

そこで私は守護霊に願いをかけた。「これから、運の良くなる人と縁をおつなぎください」と。

たかが手相見、自分の開運も及ばないのに、他人様を幸福に導くことはできないが、探すお手伝いはできるかもしれない。そう、探すだけは。

口コミで、紹介されても、連絡がつかないままの縁がつながらない、日程が合わない場合がある。私と会って手相を拝見させてくれた依頼主は、私の背後霊が「OK」と判断したと信じている。

手相を見て欲しいというのは、どんなときだろう。

未来の楽しみを自分に見つけるため。苦しい今をなんとかしたいから?

今が苦しいのは、「今のすごし方のままではダメだ」と自分でわかっているからだ。

手相をたどりながら、可能性を探す。

アレはできない。コレはしたくない。ワカッテいるけど、やりたくない。というのであれば、今の苦しみが楽なのだろう。変わりたいけど、変わりたくないのだ。

助けて欲しい、何とかして欲しい。でも自分ではしたくない。というのであればとことん、苦しみや悩みに浸ってみる。

本当に苦しいならば、そんなことは言っていられないから、やるしかなくなるのだ。

自分が変われないのに、周りに変われ、なんていうのは無理。

どんなに辛くても、隣の人がうらやましくても、その人にはなり代われない。

昔、趣味で見ていた頃、「どうして無料で見てくれるの」「どうして良いことばかり教えてくれるの」と訪ねられたが、責任がなかったからだ。

見料をいただけば、もっと深い部分も見なければならない。責任も出てくる。

見立ての結果が不本意の場合は、罵倒され、恨まれる場合もある。最悪刺されてしまうかもしれないのだ!

お遊び、趣味の延長でいるならば、言うほうも聞くほうも責任がない。

ずっとコミュニケーションツールとして、手相見をしていくつもりだったのだ。

…ずっとそう思っていたのだが。

病になって、職を失って、氣がついたら、私は手相見をしていた。

手相見をやめて、暮らしていこうとジタバタ、セカセカあがいたけれど、ものの見事に世間様の「普通」から弾かれて、現在に至る。

見えない力を感じるなぁ。

依頼主の方へ

今がつらいのなら、耐えるか、動くしかない。

私にはなにもしてあげられない。依頼主が自分で動かないと、変わらない。

確実に言えるのは、他人を変えるのは難しいということだ。

リピーターさんも増えてきたけれど、先に拝見したときと、状況が変わっていない場合は、拝見するのをお断りする場合もある。

その人の未来に必要な苦しみがある。苦しみを自分が欲している場合がある。次の扉を開けるための苦しみだ。

苦しみを経て、見えるものがある。

私が、手相見へと導かれたように。
 

 

一日幸せになりたければ

幸せを感じるのは、運が良くなったときですか。

テクニックとして、幸せを感じていれば、さらなる幸せを引き寄せることができる。自分を良い気分にすることができればいい。

小話に

「一日幸せになりたければ、床屋へいけ。一年幸せになりたければ、結婚しろ。一生幸せになりたければ、印鑑を買え(笑)」なんていうジョークというかお笑いのネタがあります。

私は、先日、カットが氣にっている近所のヘアサロンで、初めてシャンプーをお願いしてみました。

そのヘアサロンは、カットのみのメニューが選択できる、お安い価格が魅力的な店ですが、お値段よりも、自分に合うヘアアーティストさんがいらっしゃるので、通っています。

いつもと違ったサービスを受けてみたい~と思ったのです。

やはり、プロに洗ってもらうと気持ち良い~。頭皮も肩マッサージも力強くて気持ち良い。

数百円のプラスで、お値段以上のリラックスを得られました。満たされたこの感覚が大事なのだと改めて思った次第です。価値のある施術だったと思います。

そして、いつもの先生にカットしていただいて、お話で伺ったことが…。

それは、お財布の中に猫のひげを入れておくと、金運が上がるというお話。初耳だったので、ネットで調べてみましたら、かなりな件数で話題がヒットしました。

我が家には猫が4頭おりますが、立派なひげが抜け落ちているのを見るたびに、もったいないなと思いつつ掃除していましたが、これからはためておこうと思います。

とりあえず、ナマ猫から抜くわけにも参りませんので(笑)、2年前に逝ってしまったコタロウの形見のひげを、お財布に入れてみました。

開運は、試さずに文句を言うな~!文句は試してから、試してみるのはタダ というのが私の持論。

試してみても、即効性は期待しない。

運を司る世と、この世には、叶うまでタイムラグが存在する。

神の一瞬が、人の数年の場合があるのだ。

果報は寝て待て。というではないか。


 

”運”についての個人的な考察

ブログにも以前、書いた話かもしれないが、あらためて書いておくことにした。

「運」が良いというのはどういうことか。

具体的には個人によって違うだろうが、字のごとく「運」とは運ばれる存在である。

誰かが何かが、あなたのもとへ運んできてくれる。

私は昔、大きなスーパーのフードコートで隣り合った店舗のバイトさんが、同じような商品を作っているのを遠目で見ていたときの話だ。バイトさんは年齢が同年代くらいで、どちらも男性だ。

片方の男性Aは、ひどく仏頂面で、下を向いて、クレープを焼いていた。

もう一方の男性Bは、にこやかで笑みが絶えないまま、同じように、クレープを焼いていた。

自然と、行列ができたのはクレープのほうだ。

味は食べ比べたら、Aのほうが美味しいかもしれない。表情が仏頂面なので、食べたい、という気持ちが湧き上がらない。

Bのほうは、もしかしたらAの焼いたものより味が落ちるかもしれない。けれども、そのにこやかな笑みにひきつけられて、人の列がつながる。

運を上げたい、良い運に恵まれたい と切望するならば、この笑みが重要で、人が引きつけられるということが必要だ。集まる人が多ければ、情報が集まってくる。情報が集まれば、それだけチャンスに恵まれるということだ。

昔、見ていた海外のテレビドラマの話だが、大富豪一家に破産の噂がたったとき、庶民から嫁いだ後妻は、うろたえて、先妻の娘に、問う。「私はどうしたらいいの?」

上流階級育ちの娘は、後妻に対して言い放つ。「いつも以上に、着飾って、いつもどおりパーティに出て。いつもどおりよ」

この場面が印象に残っているのは、破産しかかっているから、みすぼらしさを前に出すな、(金持ちなりの)平常心を持て、的な術を感じるからだ。

運にも共通する。面白くないことがあった、不幸があった、悲しい…人間でいると、色々ある。悲しくて落ち込んでいると、泣きっ面に蜂というか、続くことがある。

不幸なことがあって、思い切り泣いてもいい。けれど他人に対しては、平常心、微笑んでいれば、運は周りが運んできてくれる。

作り笑いでも良いんだ。

仏頂面で周辺に文句を言っていると、周りの人は大人だから、一見、応じてくれていて、一時、幸福感を感じるかもしれないが、それは真の開運につながらない。

それは、周りの人のおかげだから。

あなたが、微笑むと、運は、周囲の人から運ばれて、集まってくる。

幸せとは「なるもの」ではなくて、「感じる力」が重要とも言う。

苦しいとき、切ないときは作り笑いでもいい。

運の良い人を演じることが、本当に運の良い人になれる、近道である。

そして、本当に運の良い人は周りをも幸福にしてくれる。

 

その瞬間

想像してみよう。ビニールの袋を指先で穴を開けるとして。

穴を開けるとき、指先は圧力がかかって、痛い。痛いがさらに力を加えて、穴が開いて、突き抜けた指先は、楽になる。

凡庸なたとえで恐縮だが、私の開運のイメージはこんな感じ。

別のたとえで言うなら、セーターを着るときの、頭を出すまでの、キツさというか。

つまり、開運するときは、その寸前が一番、キツイというかつらいと言うか。そこをこらえてさらに一歩踏み出すと、取り巻く運気はがらりと変容する。

ある神職の方が話してくれたことがある。

「苦しい時、もうダメダ、思ったとき、実は目標まであと少しのところに来ている。

神様は”もうダメだ”という立場に人間を置いて、試す。それでも踏ん張れるか。それでも頑張れるかと。それでも、頑張った人に、願いは叶う。」

苦しいとき、辛いとき、私はこの言葉を思い出す。願い事がたやすく叶うよりも、そのほうが、人間にはいいのかもしれない。

たやすく叶ったという願いは、本人が、苦難や労力を、苦に思っていないだけかもしれない。

手相を見て、運の流れを見てみるということは、その人の希望の存在を確かめることに近い。

絶望したくて、手相を見て、という人はいないだろう。希望が見えるかどうかが知りたいからこそ、手相を見て欲しいと希望するのだ。

運が開ける、変わり目は一番つらく、きつく、ついていないと感じることが多い傾向がある。