不思議の出会いは蟲(むし)


「蟲師(むしし)」という漫画作品を御存知だろうか。アニメ化と実写映画化もされた名作である。当初、私は背表紙のタイトルから「虫がいっぱい出る作品ではないか」と長い間、横目で通り過ぎていた。

昆虫の虫ではなくて子供の夜泣きに使用する宇津救命丸で例えられる「カンのムシ」を御存知だろうか。

他にも「腹のムシが治まらない」、とか「あいつはムシが好かない」、「ムシの居所が悪い」などと使われる、目には見えないけれど、人間に作用する不思議な存在のことだ。

私の母の祖母、私から見ると曾祖母が、この「カンのムシ」を子供から追い出す呪(まじな)いができたらしい。墨に塩を加えて、手のひらに呪文を書き、気合一喝、「えいっ」っと声をかければ、手の指の爪の間からニョロニョロと細く白い糸が出てくるという。そしてたくさん出た子供の夜泣きは治まると言う。

昔、ある学者が調べたけれど、詳しいことは解らなかったと言う話を、「ふしぎふしぎ雑学事典」(毎日新聞社刊行 1978年 絶版) で読んだことがある。

このカンのムシの呪文は、曾祖母から引き継いで、母が18歳の頃、自分や弟の手に施し、カンのムシをたくさん出した、という話を聞いて私は育った。思えば不思議との出会いはそれが最初だった。

母は、数十年前に身に着けた呪(まじな)いをすっかり忘れてしまって、今はできないというので、私は施されたことがない。「蟲師」の映画化のさい、この話を友人にしたところ、友人の祖母が同じように、まじないをかけ、歯痛のとき、ムシを耳から出したことがある、と語ってくれた。

ムシはその絵が、現在に伝わるほど、たくさん存在したらしいが、今はどうなのだろう。灯りが街に満ちるようになって、闇が消えてから「不思議な存在は」目に映らなくなった。

次に、早世した叔父が、怪談の名手であったことが、私を不思議な話に対する道しるべとなった氣がしている。

怖い話が好きなのは、心の闇を見ることができるからなのか。

なぜ、今頃になってまた「蟲」の話を思い出したかというと、昨晩、パソコンの前にいると、左耳に人の吐息の音を聞いたからだ。

左側は、壁しかないのだが。脳の誤作動かもしれない。

昔の人はそういう、「割り切れないもの」「不思議なこと」を「蟲」とたとえて表現していたのではないか、と思い当たったからだ。

蟲とは人の感情であり、念かもしれない。

しかし、母は実際、まじないで「カンのムシ」を出してみせた。

今は科学万能だ、と声高に話す人は少なくなったと思う。

科学の解明できていないものが存在する。

その最たるものは、人間の心だ。

10年前に、液晶は白黒で、現在はカラーである。科学の進歩は目覚しいが、人の心は数千年の間に進化したとは思えない。心理学で理解はできても、制御は難しい。

理屈でわかっていても、職場の人間関係、嫌な仕事を続けているとストレスで体を壊してしまう。

不思議は、人の心の中にも多くある。

疑ってみる

私は三連休、世間は選挙モード、師走は忙しくないけれど、気分だけは忙しい氣がする。以前、知人が話していたこと「こんなに幸せで怖いわ。なにかバチが当たりそう」

世間ではよく言うねぇ。イイコトがあると悪いことがある、って。

でも先日読んだ学者さんの話では「良いことがあると、次も良いことがある。次は悪いことが起きるかも、という意識が悪いことを引き寄せる」とあった。そこで、以前評判になった「引き寄せの法則」のDVD「ザ・シークレット」を見たことを思い出す。この世の一握りの人がその法則を知っているが、庶民には秘密にしていて独占するために嘘の情報を流している。というようなかな~り乱暴な解釈だがそんな感じ。富裕層にとっては、庶民は働いてくれる大切な存在である。でも自分たちの利権は守りたい。庶民には知らせたくない。で、マイナスに向くような、そういう意識的なコントロールが知らない間にされているのではないか。

母が若い頃、街の話題で新聞記者にインタビューされた時、正直に答えたところ、後日新聞には意訳でもなく、全く違う言葉が載っていて愕然とした、と話していた。幼い頃からそれを聞かされて育った私は、なんにでも疑って入る悪い思考癖がついてしまった。

与えられた情報を素直に信じるのも良いが、ちょっとナナメに読むことも必要だな。

芸能人は、所属している事務所の大きさで、メディアでのスキャンダルの扱いも変わってくるというし。

新聞や雑誌は誤報しても、謝るときは紙面小さいことが多いし。

さて、細々と手相見をして、数年も経てば、私の住む狭い町では、知り合いの知り合いが、私のことを知っていたりすることも少なくない。

「今日、手相見の人、あなたの職場にいるよね?なんて尋ねられましたよ」なんてとき、

そこからどう伝わるかは、私の意識の及ばないところであるが、占いのようで占いになっていないと思っているので、当たる、当たらない、どう伝わっても仕方ないと考える。

だから、知人から「紹介したいんだけど」と言われると、ありがたいけれど「私の手相見はたいしたものではありません、と伝えてください」と答える。

そうだ、手相を見るくらい、たいしたことはない。相手がどう判断し、行動するか、なのだ。私には伝えることしかできない。

まずは動かないと、運命は動かない。少しでも、動ける、動かす気持ちになったとき、私と依頼者の縁は繋がる。

縁は繋がる人としか、繋がらない。自分の直感を信じてくれた人とだけ、繋がるのだ。

 



準備ができた時に見える

 

先日、ヒマラヤ山脈の水晶がたくさん、手元に来て、ひとつずつ、丁寧に見て、浄化した。

すべてきちんと見た、と思っていたのだけど、今日、あらためて見たところ、一点、両剣水晶が在るのに氣がつきました。あんなに一点ずつ確認していたのに、なぜ見落としていたのだろう。注意深く見ないと氣がつかない形状だったとはいえ、必要な存在は準備ができないと、視界に捉えられないものなのかもしれないと思いあたった。と同じくして、虹が今まで見えなかった水晶の中に映えるようになったのも、不思議な話である。

目に映るもののメッセージとして捉えるか否かは、その当人に受け入れる準備ができているか、にかかっている。私と手相見の縁が繋がった人、縁の切れた人にも意味があると言える。

話は変わるが、行きつけのドラッグストアで、「新発売のハンドクリームがあるんですよ」と奨められて、テスターを試させてもらった。化粧品メーカーの薬用ハンドクリーム。美白効果有りとか。

いったん、帰宅したが、数時間を経て確かに保湿力もあり、手の感触も良かったので、再度店に足を運んで購入した。

私は今までハンドクリームは市販の薬メーカーの薬用品を好んで使っていたが、深く考えずとも、手相を拝見するに当たり、手を添える。手は商売道具のひとつである。今まで他人様に褒められたのは手しかないと思いあたった。

他人様に「運は手から入って、手から出るので、お手入れしてくださいね~~」なんて伝えているのだが、「自分はどうなの」って。

最近、あまり手に氣を配っていなかったかも。これは、天からのメッセージに違いない!ということで買いました。床に着く前に塗って、マッサージし、絹の手袋をしてから寝ると…。

すると、今までになかった良い感触だ。お値段だけはある。お値段1575円。購入したお店ではポイントサービスがついて、おまけもいただいた。

これからの手相を拝見する方のため、天然石に触れる手を大切にするために、さらに一歩進んだお手入れすることにする。

お手入れは、自分自身のため、依頼主のため。

 

選ぶということ

 

ヒマラヤ水晶

私は「手相見」であり、手相を「鑑定」するなんてことは、とてもできない人間です。

紹介制で拝見しているのも、生業ではなくて、まだまだ勉強中、発展途上、修行中だからというのもありますが、紹介者様の「目」を通して、縁をつないでいただいているからです。手相を有料で拝見してから本当に多くの方とご縁を頂戴して、私自身の知識や経験も得がたいものを、得ることができました。御紹介者の皆様のおかげで、今まで続けてこられたと深く感謝しています。

手相は、「相」であり、現在の立ち位置を確認するものなので、開運や悩み事の解決に的を絞って見る場合、その後の依頼主の心構え次第で、「読み」と違って展開することがあります。「当たる」「当たらない」と視点で見られると微妙かもしれません。最初拝見したときに、自分でも簡単に運気を読む方法をお伝えしています。

最初の拝見から半年以上経過しないと二度目の拝見をしないのも、最初の情報より、読み取れる情報が限られてくるという理由もあります。劇的な変化というのは、よほどのことがないと現れません。「半年前に見てもらったけど、そろそろなにか変化あるかなぁ」という場合、御本人に何か「思うところ」が特にない場合は、拝見しておりません。「実は、環境の変化、心境の変化があって」という場合は、半年待たずに拝見しています。

多くの依頼主とご縁をいただきましたが、中には御希望に添えず、失望させてしまった方もいらっしゃるでしょう。

また、拝見後、数ヶ月経ってから、「私の手相で健康運はどうでしたか」等の問い合わせを戴いたこともあります。詳しい履歴などは残していないので、お答えできませんでした。

私の手相見と依頼主の手相見の思うところが著しく齟齬((そご)=不一致、くいちがうこと))があると判断した場合は、二回目以降の拝見はお断りすることにいたしました。

今まで、ご縁を戴いた方とは、できるだけ縁をつなげていたいと思っていましたが、無理に拝見しても、伝えられないことがあれば、双方にとってお金も時間も無駄です。

昔、無料で拝見していたときは、「見る人はこちらで選ぶ」という意識がありました。無料だから、「いつでも見てもらって当然」という態度や「軽く見て」などの言葉もかけられましたが、無料だからこそ、選ぶという立場が長く続いていました。

見料をいただいている以上は、求められれば拝見すると、なんとなく思っていました。

でも違うと気がついたのです。拝見料をいただいても、言葉や思いが伝わらないと、見る意味がないということに。

もう、年齢も年齢ですし、これからあと何人拝見することになるのかわかりませんが、無理をしないことにしました。

伝わっているか、伝わっていないかは、二度目の依頼メールの内容でだいたいわかるようになりました。

初回の拝見で、不満を申された方が。2度目の依頼をされたことがありましたが、もともとの視点が、見者と依頼者で違う場合は、どうしようもないと思うのです。

この考え方は傲慢かもしれません。合う合わないで依頼主を選ぶということは、間違っているかもしれませんが、これが数年、手相を拝見してきた私の見つけた答えです。



 

真昼間に見たモノ

黒水晶とアゼツライト

先日、車に乗せていただいて、市内を移動中に、不思議なものを見たので、忘れないうちに記しておきます。

車の助手席から前方を見ていると、道を横断する黒い影が見えた。最初は「猫」と思ったが、よく見ると「歩いている」ので人だと思った。

その、人は「人影」と呼ぶのがぴったりなほど、黒いのだが、周囲はまだ陽が落ちていずに明るいので、通行人の服の色もはっきりとわかる。で、その人影があまりに漆黒なので注意深く見ていると、大きさが、2歳児くらいの背丈。

「子供が一人でこの広い道を横断するなんて」と周辺を見たが保護者の影は見えない。

影は道を無事に渡りきり、私が保護者を目で探しているうちに消えていた。

運転手さんにあとで、「横断する黒い人影が、危ないと思った」と話してみたら「見てません」という返事が。

…あれは、俗に言う「小人」さんってヤツですか。

周辺を歩いていた人の大きさから比較すると、小さかった!でもなにより不自然なのは、全身が漆黒だったってことですね。

私はいつも真昼間に不思議なモノを見るが、たいてい見た後に

それが「不思議」なモノと認識する。

不思議な話ついでに、最近、アメリカからのアクセスが多くて訳もなく不安を感じています。サーチロボットならいいけど、来過ぎのような氣がする。

時来る時会うという話

2012年も残すところあと2ヶ月切ってしまい、そろそろ年末の準備もしなくてはならない。今年も、手相見と天然石と、皆様からお声をかけていただいて、感謝しかない。おかげさまで、一日3食、きちんと食べられて、夜は布団で眠ることができる。なんとありがたいことか。手相を拝見するときは、ご紹介者がいらっしゃるが、初対面の方と会うので緊張する。いつも「後ろ」の方には、これから、幸運が待っている人に縁がつきますように、とお願いをしている。よって私の依頼主は、上昇運の方が多い。97%は上昇運。3%は不明。(当方の直感比)。

このところ、依頼主の方にお会いすると、皆さん、同じことをおっしゃるので、記しておくことにした。

「煉さんのことを、知り合いから教えてもらったのは、ずっと前になります。でもそのときは全然、見てもらおうなんて思っていなかった。ところが最近、ずーっと氣になって、氣になって、思い切ってメールしたんです」

これ、今年に入ってほとんどの方に言われて、私のほうが驚いている。これが波長が合うタイミングというものか。

実は、今年、9月以降、私は精神的な引きこもりを決めていた。それはタイミングを計るというか、ずっとメール等の返信の来ない知人、友人に対して、「こちらからは連絡をとらない」ということを決めていた。なぜかとたずねられたら、この波長の合うタイミングを計る為、としか答えようがないのだが。

それは、見えない世界のお告げのような感じであった。いつもなら「元気」と短文のメールを入れる相手にも、「なにかと忙しい」事情があると思えたからだ。

その、引きこもりというか、波長が合う、タイミングに入ったのは、多分、10月の末である。なぜなら、10月の末に、一斉にご無沙汰の人達からメールが到着し始めたからである。それは今まで静かな水面に小石が投げ込まれたような、波で四方八方からやってきた。

現在、返信が追いついていないので、お許しを。

手相見のタイミングも合い始めて、これも不思議である。

今まで手相を見るとき、言葉を選ぼうとか、こういうところを見ようとかいうのは考えていたが、基本「鏡」になることに徹している。たずねたいことがたくさんある人にはそれなりに答えるし、漠然と「良い事ないですかね?」という人には漠然とした答えしか出てこない。

個人の事情を深く聞き取り、手相から答えを導くのだが、普段は他人に言えない事情や事象、思いなども聞く事になる。

相手の黒い感情、黒い立場も目にすることも少なくない。

依頼主は話された後、口々に「すっきりしました」と話してくださるのは、話すことで自分自身を癒しているのではないかと思ったのだ。

今まで、自分が読み取れることに責任を感じていたが、私は手相見であり、「鏡」である。

「よく当たる」と、ご紹介してくださるのは、当たる、当てるではなくて、自分自身の内面に光を当てて、浄化するのだと思える。

私がお会いして見ているのだが、それは依頼主に準備ができたから繋がった縁だと、思うに至った。

それは、石と人の出会いにも言える。

金縛りは転機

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昨晩、何年ぶりかで、金縛りに遭った。

夜中に目が覚めて、「来るな…」という予感とともに。

両耳の奥で割れんばかりの大きな音が鳴り響き、体に圧迫感が。

なにか、見えないかな、五感をすましたが、映像は浮かばずに、胸の部分にピンポイントの圧力がグイグイかかってくる。息が詰まる!と一時、焦ったものの…そのまま眠ってしまったようで(苦笑)。体が疲れているのかも、と思ったのだが、触れる電気機器がことごとく動作不安定になるということに。自宅のパソコンが不調。職場のパソコンが、なんともないところで不調。携帯電話や自宅の電話も急に鳴り出したりして。

私、昔から静電気帯電体質で、真冬は静電気除去のアイテムが必需。

パソコンの前を歩くだけで、画面が揺れたりした。

電気製品だけでなく、昔から「不良品」を手にする機会が多い。

誰かが、じっくり選んでくれたお土産でさえ、私が受け取ったときは、欠けがあったり、不良品になっていたりする。

昔、プリンターを買ったら、新品なのに内部が壊れていたことも。

以前、夜中に目がさめると、真夏なのにひどく寒かったということがあり、寒くて、頭の天辺から、なにかをすぃっと引っ張られる感覚があった。

アレも金縛りに分類されると最近知った。

金縛りに関する科学的考察は、よけておいて

(都合よく)思うに金縛りは、転機を知らせにやってくる。

抜かれた後は、押し込まれた感覚。

背後霊、交代したかな??

 

変わっていくお題

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手相見をしていると、不思議なことに似たような相談内容が、集中することがある。

恋愛、家族関係、仕事、その他。続くときは続くので、世の中の「悩み」のサイクルがそうなのか、自分に向かってくる「お題」がそうなっているのか。

手相見を名乗って5年目。

ようやく最近、「お題」が「そのとき」を待って私の元へやってくるような氣がした。それは、天然石関連の依頼にも同じことが言える。願い事の、満ちる時が、同調しているのを感じている。それは、依頼のメールが集中する時期や問い合わせが集中する時があるのだ。これを、「流れ」と見ると、意外なものが見えてきたりする。

手相見をしていて、普通に暮らしていては出会うことのないような方々から様々なお話を聞き、様々な悩みを見てきた。

私は他人様に偉そうに語れる学歴も、職歴も持ち合わせていない。人間性もそれほど高くない。あるのは手相見の経験と天然石愛好家歴だけ。

けれど、いつも心のお師匠さま(故)山村幸夫さんが、著書「神からのギフト」で語られているような、人間性に少しでも近づきたいと思っている。昨日よりは今日、今日よりは明日、良くなっていく。

これからの「お題」は「良くなっていく」ということだ。

信じる信じないは

天然石愛好家20年以上の私。天然石で色々作るようになってはまだ10年も経っていません。10年以上前に失業したとき、市役所経由の紹介で、水引の内職をしたことがあります。そのときに買い揃えた工具があって、それを使って作ってみよう、となったのが、始まりといえば始まりのような。

ワイヤーを使って作ってみようと思ったのは、作ったブレスレットのゴムが切れる、というのでワイヤーを使おう、ということで。

ゴムを使ってもワイヤーを使っても、切れるものは切れるし、作ったものは消えてしまうことが続いたりする。

ある時、私を鑑定してくれた霊能力者の方が、私の作った品と、持ち主の波動が合わないと、ゴムが切れたり、消えたりする、と話してくれました。

言われてみて、注意深く見てみると、たしかに、石が持ち主と合う合わないというよりは、私が作ったものが相手に対して作用しているかのように、消えたり、現れたり、ワイヤー切れたりするらしいということが見えてきました。

「絶対、なくならない場所にしまっていたのに」「きちんと持っていたのに…」 皆さん、口々におっしゃいます。

石好きな私、依頼主の予算目いっぱいで石代にして、手間賃度外視して作った品も、すぐに持ち主の手許から消えてしまいます。

願い事に見合った報酬を、私が得ていないから、波動のバランスがとれていないからでしょうか。

私の作ったものには、見えない付加価値があると認めなさい、といわれているような氣がしました。

私の独断で、良かれと思って選んだ石が、相手の波動に合っていないのでしょうか。自問する日が続いています。

「決断した日に、消えていた」というお話も多く聞きます。

一度、手にしたものが消えるのは悲しいことです。

私は、悲しい思いを依頼主にさせているのでしょうか。

ただ、アイテムを失くされた多くの依頼主さまが、「石は手許から消えましたが、願い事は叶いました」と言って下さるのがありがたいです。

石は、天への奉納品と考えています。

石がすぐに手許から消えてしまうのなら、窓辺に吊るすサンキャッチャーを傍において、石となじむのも、良いのでは。

でも、やはり、見えない世界から告げられているような氣がするのです。私の石選びに対する姿勢というか、視点を変えることを求められているのかも。

見えないが必要なもの

 読んだ書籍に書かれていた一文。「好きなことを仕事にすると、働くことは苦にならないが、好きではない仕事をしていると働くストレスを他で解消するために、お金を使ってしまう。結果いつまでも豊かになれない」(意訳)

 別の日、某番組のドキュメンタリーで、好きなことをしている、「人形作家」の方を特集していた。その人は朝から晩まで人形を作っていて、家には寝に帰るだけ、でも楽しいです、と語っているのが印象深かった。好きなことを生業にしているかたは、脳内物質の関係だろうか、あまり老化していないような印象を受ける。年齢を重ねても若々しい人は、好きなこと、つまり気分のイイコトをしているのだろう。

 現代では、「目に見えないもの」を否定するむきもあるが、目に見えない心のありようが、体の調子を左右することがあるのは事実だ。人間は、「イヤだ」「辛い」と仕事に対して思うと、朝、起きられないとか、涙が出てくるとか、いろいろと体調に表れる。見えないけれど、「想い」の力は強い。

 私も年を重ねると、自分の嫌なことは避ける思考術が身についてきたと思っている。もう、残り少ない余命を考えると、自分の欠点を正している時間はないのだ。

 手相見も天然石で作ることも、好きだからしている。

 その中でも一番苦手なことがある。それは石の説明書をまとめる時だ。天然石愛好家が長いと、「書くまでもないのでは」と思ってしまう。パワーストーンブームになって久しいけれど「石のことよくわからない」という方も少なくない。

 また、身に着けてくださっているが石の名前を忘れられていたりすることもあるので、説明書は必要なのかもしれない、不必要なのかもしれない。

 依頼主の希望をたずねて、石を選び、探し、発注し、受け取り、浄化し作成、要約、発送という流れである。

 完成してからの作業が、微細だが負担になっているのは自覚している。

作ることは楽しいが、発送作業は一仕事なので、週に一度まとめて行っている。

けれども、そんな気持ちを、吹き飛ばすのは、作ったものに対する感想をいただいたときだ。

作成代を戴いているが、作ったモノ、選んだ石が、相手にどんな受け取られ方をしているかは気になる。

 先日、依頼者の方が受け取ってすぐに「備忘録で見るより、石の色がとてもきれいで、気分がよくなりました」と感想を送ってくださった。その喜びのお言葉をいただけて、私の作業はひとつ終了となり、次への作業の意欲へつながる。

 その「ありがとう」という言葉をひとつ戴くたびに、手相見や天然石の作業が続けていける氣になる。

 自分も、良いサービス、良い品に出会ったときは、「ありがとう」の意志を相手に伝えることを忘れないようにしよう。

 先日、購入した自費出版書籍の梱包や手書きの宛名、差出人名のひとつひとつにも、作者の方の購入者に対する「愛」を感じた。

発送の資材全てに愛がこめられている。

私も、依頼主への「愛」をきちんと伝えていられるよう努めたい。