カテゴリー: つれづれ
手帳の季節
来年2014年用の、手帳を購入して参りました。
私はずっと、ペイジェムシリーズを愛用しています。サイズもちょうど良いし、薄くて書き込み部分も多いのが理由です。
手帳には願い事などを書くと良いとか言いますが、私は予定しか書いていませんので、来年の手帳から、書き込んでみようかと思います。
書き込むといえば、長年、気にしていながら、手を打ってこなかったこと、自分のクセ字を美文字に矯正すべく、練習本を購入しました。
イヤならなにか行動しなければならない。
これは開運の基本です。
「このところ、ツイテイナイんですよね。嫌なことが起こるんです」というメールをいただきました。
今までうまくいかない。だから変えてみる。変えている過程というのは、今までの行動パターンを変えるわけですから、しっくりこない。
一見、不運続きのように見えます。
人間というのは、不運だと言いながら、今までどおりの慣れた行動パターンをとりがち。
ネガティブな思考をする人は、ネガティブに考えるほうがラクなものなのです。
そこを、意識的にポジティブに考え直す。
力技です。無理にも考えます。
最初は違和感もあり、「嘘っぽい…」と心の底に湧き上がっても、少しずつ行動を変えていかねば、運気は変わらない。
変えるのは辛い、面倒くさい。でも、しなければ、辛いままです。
辛いままでいいのか、一時の辛さで、乗り越えるか。
そこは、自分次第。
不運続きというのは、開運の好転反応という場合があり。
自分の行動を振り返って考えてみることも大切。
言うはやすし。他人様に言いながら、自分もあらためようと決めたしだいです。
天にお任せ
先日、フランスのパリに旅行に行くという友人のメールを受け取り、パリをバリと読み間違えて「バリに行くなら、ガムランボールを変わりに買ってきて」と返信したところ「旅行先はBaliではなくParisです。」とあり、「あちゃ~。ガムランボールへの想いが字を読み間違えさせたんだわ」と反省しました。他人を当てにしているからこうなる、なんとか良いガムランボールがないかなぁとネットで探し回ったら、写真のアイテムを見つけたわけです。セール品だったので、本場バリ島からの送料を加えても定価の半額!良い買い物をしました。
ネットショップでは、その他、さまざまなアイテムを取り扱っているようです。
■バリ島発 rainbowspirit
さて、最近の相談内容に目立つことが、「傷ついた」と訴える事案。
人生、長く生きていると、もちろん、傷つくようなことを言ってくる人はいけないが、傷つく、傷つかないは、自分でコントロールできるのではと思うのだ。
あの人がああ言った、わたし傷ついたんですけど! と訴える人がいるとして
相手を責めて、一時相手が態度を改めたとして、同じような事案が起こるたび
「私、傷ついたんですけど!」ということをしていると、回りから「腫れ物を触るような扱い」をされる。
本人もそれを求めているのかもしれないが、「腫れ物に触るような扱い」と「大切にされる扱い」は似て非なるものである。
そこのところを押さえておかないと、傷つく私を大切にして~!とアピールしているうちに、大切なことを忘れてしまう。
石の話にたとえると、ダイヤモンドは硬い。傷つかない強さが珍重されるが、ダイヤモンドでさえ、同じダイヤモンドで傷つくのだ。
また、傷つくからこそ、美しいカットが施され、美しい光を放つのだから。
傷つくことに敏感になって、相手をコントロールしようと思わないことが大切だ。
極端な話、傷つくのは、自分の勝手だから。
傷つきたくなければ、強くなるなり、その場から去るなり、自分で決めなくてはならない。
自分で決められるのだ。
強くなるには、考え方の癖を、変える。発想の転換をする。
昔に比べたら、ネット環境もあるし、書物もある。
お金がないなら図書館で借りて読むこともできる。
行動するのみである。
相手をコントロールするより、自分でなんとかするほうが、現実的。
自分に敵対している(と思われる)人には、聖書の一文にあるように、「復讐するのは、あなたではない。わたし(神)である」
そういう人への復讐は天にお任せしておけばよい。
傷つくのがいやなら、強くなるしかない。
鋼の強さか、しなやかなしたたかさか。それは私も、もちろんあなたも選べるのだ。
<
これからの世代
これからの時代の働き方を考えてみた。
私たちの子供や孫の世代になると、物が満ち足りている世界で生まれ育ったので、私たちまでの世代と違って、物よりも精神の充実に重きをおいていくのではないだろうか。
今までにも、好きなことを職業にしている人はいた。
でもそれはひとにぎり。しかし、これからはこれが、主流となるのでは。
お金が全て!という世代ではないから、働くときは自分の精神衛生が大切になる。
そう考えると、無理をしないで好きなことを職業にしていく世代の始まりなのかもしれない。
みんな、わかってきている。
平和な時代にお金に重きを置いて嫌いな仕事で無理して働いていると、ストレスが溜まって、自分を癒すためにお金を費やしてしまう。
お金があるだけでも、精神的に満たされているだけでも、生きていけない世界がそこにはある。
ただ、好きな仕事をしていると、お給料は少なくてもストレスがたまらず、また苦にならずに働けるのだ。
私自身の経験値から言うと、好きな本屋で働いているときは、残業も、休日もない働き方だったが、趣味と実益がリンクしていたので苦にならなかった。休日も担当していた文庫の売り上げが気になって出勤していて同僚に「帰れ!」と叱られたなぁ。今思い返すと迷惑なヤツだったなぁ。ごめんなさい。
また、ある時は好きなパソコンでデータ処理をする仕事を持ち帰り、自宅で時給に加算されない仕事をしていても苦にならなかった。お金は後からついてくる。
好きなこと、これをどう生かして食べて行く(職業)につなげる働き方を探して確立していくかが、大切になる。これからの世代かもしれない。
皆、ストレスが少なく、自分自身の価値観で満たされて生活をする。
そんな世界が、楽園となる。
楽園は、自分で作るのだ。
人間は無理や我慢して、許容量が超えてしまうと、精神や体に歪みが生じてしまう。
鍛えられるラインと潰れるラインの見極めが大切だ。
甘えてる とか、軟弱 なんて、それは個人差があるので気にしない。
祖父母や親の世代とは、人間的なタフさが違う。
お金のある、なしは、ひとつの物差しでしかない。今までとは価値観が違う世代になりつつあると思う。
お金がたくさんあっても、金持ちには金持ちなりの悩みがある。
人間でいるかぎり、悩みとは無縁ではない。
魂は親世代より進化していると聴く。
世界は少しずつ変容していくのかもしれない。
…ていうか、願望ですかね。
笑顔は必要
某日、某所で、断片的に小耳に挟んだ会話から(多少アレンジ有り)。
あるお店のお惣菜は、とても美味しいが、販売者に笑顔がないらしい。
いつも、無表情で、販売しているらしい。ある意味もったいない話である。
販売者はパートさんなら、「たくさん売れたところで、私の時給が上がるわけでもないし」。
オーナーならば、「美味しいだけで充分でしょ」的な考え方か。
某ファストフード店では、メニューの中に「スマイル…0円」とある。
確かに、笑顔のあるなしで、食物の味が変わるわけではないだろうが。
あるなしで買い手の気分は違う。この買い手の気分と言うのが、日本人が培ってきたサービスではないだろうか。ある著名人が、外国で買い物をする時に初めて、日本のサービスの良さ(笑顔)のありがたさがわかると話していた。
以前、バイト先のパートさんが話していた「同じ時給なら、暇のほうが良いに決まってる」 。暇すぎるのは困るが、忙しすぎるのもイヤっていうのが正直なところだろうな。
私が昔、アルバイトしていた百貨店では、忙しすぎると「大入り袋」がバイトに配られた。それはたしか時給1時間分が入っていたし。大入り袋に加えて上司の「おごり」が振舞われた。それは10代のアルバイトにはモチベーションがあがったことを覚えている。
別のバイトで、売り上げが良かったとき、オーナーは別に「食事代」を持たせてくれた。そういう、小さな気配りが、昔は存在した。
それは日本的な良かったことだったのか。ビジネスがアメリカの合理主義、成果主義を謳うようになったが、それはきちんと成果を見ていることが前提で、使う側が、使われる側にちょっとした気配りがあれば、の話だ。
余裕がない今の風潮が、負のスパイラルになっているのか。
つまり、笑顔があるってことは、それだけとてもありがたいことなのだ。
道路工事を誘導してくれる警備員さん、お釣りを渡してくれる店員さんの笑顔が、当たり前ではなくて、「有難い」ことなのだと思い当たる。
自分は、何を相手に渡せるだろう。
笑顔は苦手な人は自分の愛する存在、ペットや我が子をイメージすると、良いらしい。私はいつも愛猫を思い浮かべるところから始めている。
仕事をしていて、無表情、仏頂面をしている自分に気がついたら、気がついたところから愛猫を思い出し表情筋を緩めることにしている。
表情筋を緩めていないと、年を重ねたときに自分の表情が固まってしまうからだ。
笑顔の多い人生としかめっ面の多い人生だったかは、老いた表情に刻まれてしまうのだ。
先日の伯父の葬儀で、久しぶりに会った老いた親類の顔を見て、私は再度認識した次第である。
今、不幸だとか、ツイテイナイと思っているのなら、形から入れば良いのだ。相手の笑顔の無さを責めるのはちょっと待って、自分から笑顔を相手に向ければ良い。その相手はすぐに応えてくれないかもしれないが、廻りまわって、あなたには笑顔の対価が戻ってくるだろう。
笑顔はそれほど、価値がある。
まぁ、時と場所を考えてね、と加えておく。
時と場所を考えないで笑顔でいると、いらぬトラブルの元になるから。
普通の時、普通の場所で、笑顔でいるようにと私も心しておこう。
相手の不遜な態度に腹がたってしかたないときは、自分が不幸というか不運なんだと思う。
幸せな人は、腹立てないし。「しょーがねーなー」くらいで、引きずらないだろうから。
失礼な!と憤った相手には、「貸しを作った」くらいの心で居れば世界は平和だ。
しかし、人間ができていないので、些細なことで腹を立てながら、一歩進んで二歩下がる日が続くだろう。
それでも、まったく意識しない昨日よりは、ちょっとは進んでいると思う。
体調がイマイチ
数年ぶりの列車の旅のせいか、帰宅後、体調今ひとつです。慣れない場(葬儀)で緊張したためかと思っていた。あるいはナニかを連れて帰ってきたか。とか。
あれ、更年期でも筋肉痛があるというので、それかも。
毎年、熱は出ないが筋肉痛になるのは、風邪だと思っていたけど、更年期だったかも。
そういえば、誕生月の前後は、運気の切り替わりで、体調を崩す場合もあると、運勢学的に言うのでそのせいかも。 数年前に運気をタロットやリーディングで観てもらったときの年齢での切り替わり時期が迫っているので、そのせいかも。
などと考えていたら、9月の第1週は、あっという間に過ぎていた。
ヘミシンクのCDは「内なるガイドにつながる」を続行中。
あいかわらず「寝オチ」あり、クリックアウト(途中意識がない)あり。
体調がイマイチなのは、ヘミシンクのせいかも、と思ったところ、単に更年期だと思い当たった。
昨日、久しぶりに天空に橋が架けられたような雲を見た。橋というか、龍にも見える。
私のガラケー携帯電話、4年過ぎたのであるが、あちこち塗料も剥げて、壊れかけている。
スマホにするのは抵抗があったのだが、本日、ドコモから、iPhoneが発売されるとの報道が!諦めかけていたが、心が少し、動いた。すぐ変更はないだろうが、今使用しているガラケーが壊れた場合の選択肢が増えたことは安心。
このところ、手相見の依頼主から「その後」の経過報告を頂いている。私も忘れた頃に頂くメールは勉強になる。自分で見たことはすぐに忘れるようにしているが、開運したのは、私が観たからではなくて、観た内容に対して依頼主が努力したから。
また、不運に浸っている自分が良い、というのも少なからずある。不運を幸運に変えるには、本人の気力と決意と希望が必要だと思う。
希望が存在しないのなら、手相見をはじめ、占いには意味がないのではないだろうか。
かなり、昔、人生の岐路というかどん底のときに、私は手相を観てもらったことがあるが、占い師は「あなたは、36歳から…」と呟いて、黙ってしまった。
若かった私は、「36歳から運気が上がるのか?」と勝手に期待したが、今振り返ると「悪くは無いが、波乱万丈だった」と自分で評する。
その年齢から、仕事を失い、父を亡くし、病を患い、手相見で見料を得、天然石で物を作り。
自分でもこんな人生が待っていたとは!と思うことしきり。
不幸だとは思わないが、人生のイベント無くして、今の自分は存在しない。
不完全な自分をそろそろ諦めると言うか、唯一無二な存在として受け入れる時期に来ているのだろう。
早くも9月
週末は、伯父の葬儀のために急遽、岩見沢市へと出向いた。
父方の本家のある街。訪れるのは数十年ぶりである。土地と交通の便から、札幌や東京には出かけやすいのだが、旭川市を越えた向こうは、なんとなく敷居が高く思う。
こういうこと(冠婚葬祭など)が無ければ、訪れることも無い。私の生まれたのは、岩見沢市から遠くない三笠市の幾春別(いくしゅんべつ)という街。
ただ、幼少時に離れているので、その土地の思い出はない。
8月の最終日は、通夜と葬儀で慌しく過ぎてしまった。
日程に余裕があれば、足を伸ばして、札幌や旭川の街を楽しめたのだが、あいにく余裕がなかった。
往路は、特急オホーツクで。
帰路は、旭川まで、スーパーカムイに初めて乗り
旭川からは、特別快速に乗った。
北海道は、広いとつくづく思った。
人生の終わりについて考えると、涙を流してくれる人がいるということは幸せなのだ。
そうして忘れられない年の8月となった。
写真は、岩見沢駅のホームにある、ばんえい競馬の像。
後ろの霊の人に会いたい
先日読んだ本 「死ぬことが怖くなくなる たったひとつの方法」
スピリチュアルな対談集であるが、著者の一人 矢作直樹氏は、東京大学医学部教授。同大学医学部附属病院救急部集中治療部長である。この人が本作で「ヘミシンク」について語っていたので、興味をもった。
ヘミシンクというのは、以前、小耳には挟んでいたが、「聴くだけで”体外離脱”なんて可能なのぉ?」と私は懐疑的であった。しかし、世間的に地位も名誉もある人が体験を語ってくれたことで、興味を持つとは。
ミーハーとそしられようが、かまわない。
私は夢か現か、体外離脱しかけたことがある。背中にコードがついていて、引っ張られて肉体に戻るという生々しい感覚を体験している。
でも、体外離脱して、もとの体に戻れなくなったらどうする?見たくない怖い霊に遭遇したら? グルグル考えた。今はネット時代であるから、あらゆる体験記録もブログで読める。
「ヘミシンク 挫折」「ヘミシンク 体験」 「ヘミシンク リトリーバル」などさまざまな文言で検索して読んでみた。
予想以上に多くの人が、自分のガイドに出会っている。これは新鮮な驚きだった。
もちろん、危険だと警告する内容も読んだ。
重要なのは、マイナス思考の人は手を出すのはやめておく。
自己責任で手を出すこと。
でもね、御幣があるが、お酒もタバコも、危険と言えば、危険だが、嗜好品として存在している。
ヘミシンクもそんな位置づけ。
自分の霊格をあげておけば、怖い霊には会わずに済む。なによりも、たとえそれが脳内の幻覚、妄想だったとしても、己自信の内観ができて、自分のガイドに会えるならば、ネットゲームよりも楽しめるかもしれない。たとえは悪いが、映画「トータルリコール」の一場面。娯楽として割り切ってしまえば良い。
動機は不純ながら、いきなり体外離脱は、怖気づいているので、「マインドフード」と呼ばれる分野のCDから少しずつはじめてみようってことで、
とりあえず、「内なるガイドにつながる」と「具現化」から。
試してみてなにか発見したら、随時、記していこうと思っている。
お値段もお手ごろで、なによりも眠れる。質の良い眠りがそこにある…が。
眠れると言うか、思考が停止して、すっきりとするのだが、まだ脳は筋肉痛なのか。本来の使い方ではないよね…。
ヘミシンクは、根気強く聴き続けるのが大切らしい。
ブログにはヘミシンクのゲートウェイ を 4年目にしてガイドに会えたという人もいらした。
ゲートウェイシリーズはちょっとお高いが、これで何年も楽しめるのなら、ある意味お得な娯楽ではないかと思っているのだが。
とりあえず、具現化で。
お告げは他人の口からやってくる
新しい(推察)守護霊が来てから周りの空気がちょっと変わってきていると感じている。
最近、ヘミシンクを始めて、寝つきがすごく良くなった~と喜んでいる。しかしヘミシンク体験者の間ではこれを「寝オチ」と表し、しかもこれは、脳の筋肉痛のようなモノと表現されているのだ。
それは、おいて置いて、私の心のお師匠さまのブログに「高級霊はしゃべらない」とあり、私はつねづね自分が言葉によるお告げがないのが不満だったのだが、その記事によって腑に落ちた。
耳元で明確に話す守護霊でなくて、良かったのだ。
私は数日、実母とオオゲンカをしたのだ。始まりはすごくくだらないことだったが、どちらも似た性格なので応酬がエスカレートし、このままでは実母と言えど、どうにかされる、どうにかしてしまう?と危機を感じたのだが。
急なお誘いであった、友人から体験談として「夫婦喧嘩したときは、どうせ仲直りするんだから、早めにする」と語られ、「これはお告げ」と私から折れてみた。
しかし、母は私の謝罪も、歩みよりも一切拒み、頑なな態度をさらに硬化させた。
謝罪の言葉は、相手が受け取ろう、と思わない限りは、届かない。今の日本をめぐる頑なな国の態度を思わせる。
これを想像するに、運命がもしも、あなたに「幸運を」「よいチャンスを」と差し伸べてくれていたとして、本人に「受け取ろう」という意思がなければ、それは掴めないのだ。
自分で掴もうとしないで、運命を嘆いているのは、嘆いている運命を自分で求めていると言うことだ。嘆いて、自己憐憫(れんびん)が好きな場合は、どんな働きかけも、作用しない。
多分、私はこれからも母に歩み寄ろうとするが、きっと母は全速力で逃げるだろう。それはずっと続くかもしれない。でもそれは、私のせいではなくて、本人が歩み寄らない自分 が好きなだけということだ。
今、親子関係で悩んでいる人がいたら、親を大切に、とか親を敬おう という教えが世にあるのは、基本、親の世代より子の世代の魂が進化しているが、進化におごって親を見下さないようにする戒めである。
人間としての経験値は親にスキルがあるかもしれないが、その魂は進化する。
進化しないと人間という存在である意味はない。
故に見下さないような戒めが必要だからこそ、子の世代は親の世代にはある程度の諦めが必要なのかもしれない。
あなたは、あなたの人生を、あなたが掴み取っていく。親の考えや希望は参考にして良いが絶対ではないと、知っていてほしい。
守護霊の名前は
最近、忙しいのは、氣のせい。
図書館で、面白そうな本をたくさん、借りているから。
天然石の在庫が多くなったので、いろいろと作っているから。
それと、今、「ヘミシンク」のCDを聴き始めたから。
聴いていると、すぐ寝てしまう。俗に言う「寝オチ」してしまうのだが。
これがまた、寝そびれることがないほど、すぐ寝てしまって、朝まで起きることがない。
ヘミシンク で不思議な体験ができなくても、この寝つき良さ、侮れん。
「ヘミシンク」では、不思議な体験はできていないのだが、不思議な夢を見た。
守護霊が交代する夢。
守護霊と名刺交換する。「天使男(てしお)さん」という名前。
てしおって、そのまんまな読み方。しかもイケメンではなかった。40代の普通のサラリーマン風のメガネ男。しょせん、私のイメージ力はこの程度か。
これからは「てしおさん」と呼びかけながら、協力を依頼するつもり。
手相見もほどほどに忙しいと、ブログであまり詳しくも書けない事案が増えてくる。
先日、検索文字に「手のひらがピンクの人について」という文言が残っていたので、お答えする。
手のひらで、見るのはその人の現在のエネルギーである。
ハリがあってつやつやな人は、良いエネルギーを放っているが、くすんでいる人もいる。
ピンクだけど、まだらになっているひとは、無駄な場所にエネルギーをつぎ込んでいると判断する。手のひらのしわは、多い人は苦労する、と昔から言われるらしいが、横線の細かいの部分は、だいたい自分で自分の限界を決めている人、気苦労の多い人に見られる。
縦線が多いのは、やる気や開運のタイミングを表すが、これも短めのが多いと器用貧乏になりかねない。
私自身は両方にあてはまるタイプ。
手相の線で運、不運を計るときは、線の切れ、遮りを読む。
よほどの不運が見られても、切れた線から立ち上る線があれば、良し。
立ち上っていなければ、立ち上げる方法を模索する。
私はそのために手相を拝見している。
三人寄れば文殊の知恵。
依頼主と私、そして「てしおさん」で知恵を出し合うのだ。








