信じるものは

私は手相見である。

スピリチュアルをかじっているが特定の宗教を信じているわけではない。

偉い神様が降りてくることもないし、天使が囁いてくることもない。内なる声にしたがっている。

子供の頃は、キリスト教会で葬送されるのに憧れていた。

若い頃、お寺のお坊様とのお見合いの話を「牧師様ならいいですけど」と言ってお断りした。今考えると、罰当たりな人間で申し訳ない。

昔見た夢から想像するに、前世はクリスチャンであったかもしれないが、厳密に言うと神様は信じているが、特定の宗教の神様を信じているわけでもない。

けれど、この宇宙には見えざる力が働いていると信じている。それゆえ「水晶教」を自称しているが、一般の枠にはめてみると、無宗教に近いかもしれない。

信仰という文字は「信じて仰ぎ見る」と書く。自分が信じるものがあれば、他人にとやかく言われても、いいではないか。他人に教えを押し付けなければ、自分が信じているなら、いいじゃない。

人間関係を築くとき、宗教の話はタブーとされる。

宗教だけではなくて、自分の好みを他人に押し付けてはいけない。

信じる存在が何であっても、作家や歌手や映画や色、香りいろいろあるけど、相手の好みにダメだしは控えておくといい。敵意を向けられずに済む。

人には、たった一度の思い出を糧として生きていける強さもある。

ようは、自分の中に在るものを信じ続けられるかどうか、だ。

たとえば、好きな人があなたに対して秘密を持っていた。

その秘密を知ったとき、あなたは 「騙されていた」と憤るか

「(相手を)好きになったのは、自分だから、それでもいい」 と納得できるか。

あなたにとっての 信仰=宗教 ではなくて、「信じて仰ぎ見る存在」は何だろうか。

私も手相を見て、恋愛の先に待っている運気を読むけれど、依頼主の深い心の奥では、その先がもうわかっているのではないかなぁ と思えることがある。自分でなにか兆しを感じているのかも。

それを明確に今、示して欲しい、示すときが来た、という流れが、私への縁に繋がっているのかもしれない。

もっと、自分の強さを信じるということも、人生のテーマなのかもしれない。



愛には形があるか、ないか

手相見として多い相談内容は、これからの運勢や仕事運。そして全てにおいて絡んでくるのは「愛」関係。

恋愛、家族愛もこれに含まれる。恋愛で、依頼主から聞く言葉で一番多いのは「××年、付き合っている」というもの。お付き合いの年数に愛情の深さは比例するかと尋ねられれば、それは違うと言える。有名な歌の一節にあるように「恋ならばいつかは冷める」。

一瞬で恋に落ちることもあれば、一瞬で恋情が冷めてしまうこともある。

今まで拝見してきた数と同じほど、愛には、いろんな形がある。

決まった形がないというべきか。

一生かけて相手を想うのも愛で、相手の気持ちを察して「放す」ことも愛である。

不毛な愛に見切りをつけるのも、自分への愛であり、

別離を自分の人生の糧とするのも愛である。

愛に理窟は通らない。通らないから、人間は歴史を繋いできたのだ。目先の利害で考えて、損得で考えていたら、「愛」は育たないし、意味もない。電卓で計算するように割り切れない。それが「情」というものだろう。

今まで相手と過ごした時間の長さに執着するあまり、せっかくの良い運の流れが来ているのに、立ち止まっているのはもったいない。

試せるものは、試してみて、もういちど、考えてみるのもいい。

斎藤一人さんの本にもあったけど

「何万回も生まれ変わるんだから、こういう人生が1回くらいあってもいいや」という開き直りと言うか、覚悟するのもアリかもしれない。

私が読み取れる運気の流れが全てとは限らない。

選ぶのは、自分自身。

「愛」というモノの存在が自分で解るまで、時間がかかることもあるから。

 



 

縁が財産

今月も今日で終わり、明日から10月。西洋占星術で、30年ぶりにやってきた、土星が3年ぶりに立ち去ってくれるという。そう聞いてから、このところ数年間の不調も「土星のせい?」なんて思い当たったが、運も人も負荷がかからないと鍛えられないということで、嵐の過ぎるのを待っていた。土星の示す兆しは不安であったが、鍛えるためには必要なイベントの数々だった…。そう思えば、ありがたい。

ネットで「西洋占星術 土星」などで検索すると、色々と知識が得られるので、氣になる方はどうぞ。

手相見が西洋占星術を信じているか、と尋ねられれば、「氣になる」と答える。もともと、あまりアテにしていなかったが、この数年の周辺の動きがシンクロしているようだったので、目安にしている。

星の動きが人の運命を示すのか?とご尤もな問いもあるだろうが、見えざる力に示されるということを知っている身だから、今は土星には立ち去っていただきたい。

今年を振り返るには、少々早いが、土星が天秤宮に入る一昨年の9月までは、手相見はご新規の依頼主が多かったが、この2年ほどは、リピーターさんが多い。リピーターさんと会うときは、自分の見立てが正しいのか不可なのかとても緊張する。また、拝見数が増えるということは、どこでどう繋がっているかわからない依頼主の縁(えにし)の間に立つということだ。

思えば、もう数年、手相見しているが、御紹介者あって拝見しているということは、それだけ、私と言う手相見を紹介してくださる方が存在すると言うこと。

そして紹介してくださる方を通して、友人、知人が私の手相見に合う、合わないを繋いでくださっているのだ。有難いことだ。

おかげさまで、昨日にて今年も昨年と同じ拝見数をクリア。

10月の土星が去るのを前にして 来年も手相見でいられるかなと思う。

読み取れない部分があるときも、あいまいな言葉で濁さないように氣をつけている。

私から見て、「良いこと」が依頼主から見て「良いこと」で表面化するとは限らない。ワンステップおく場合もあるし、ちょっとしたイベントを起こす場合もある。

だから、罵られたり、責められたりすることも、覚悟しているのだが、皆さん、とても理知的で優しい方で恵まれていることと、感謝している。

時おり、真夜中にメールをいただいたり、「ついでに軽く見て」とか「子供の手相を見るのに、そんなに堅苦しくなくてもいいじゃん」等々、切ない言葉や対応をされることもあるけど、それは手相見であるお約束の範囲か。

それでも私の手相見に大切なお金を支払ってくださっている方がいらっしゃるかぎり、私が「ついでに」や「いいじゃん」で、お答えはできない。

土星は、10月6日に天秤宮を出て、蠍宮に移動する。

少し、運氣の流れが変わるだろうか。

私は今まで拝見させていただいた依頼主の方とのご縁が財産であり、お守りである。



出番アリ

来年2013年の手帳を購入。毎年同じシリーズ。ペイジェムのA6判。

先日、私、乗用車と接触しました。

信号待ちをしていたところ、バックしてきたフォルクスワーゲンに左横からひざをボン!と押されまして。よろけて倒れたんですが、幸いにも怪我も、痛みもありませんでした。運転手の方が御自身で叫んでいたところによると後方確認を怠ったようです。

事故というのは、どちらかにに物質的な損傷があった場合を指すので、今回は双方ともなかったので、接触しただけ、です。

実は私、車に接触するのは3回目です。

小学生の時と中学生の時にもありました。これも事故には至りませんでした。世の中には、2度あることは3度ある、とか3度目の正直ということわざがありますね。3回目は、もしかすると危ないかも、と思っていたのですが、無事でした。神様、ありがとう!

接触まで、寸前だったということは2回あります。

横断歩道を渡っていたとき、左折してきた前方不注意の車。もう一歩踏み込んでいたら接触していただろう、車と私の間は10センチもなかったと思う。

別に、同じようなシチュエーションで、跳ねられそうになったときは、その後、乗用車の方が私をつけて来て、500メートル先で謝られたときが別の意味で怖かったです。

周りに聞いてみると、こんなに回数、あるの珍しいんだそうです。

不運とみるか、私って強運だわ、と思うのは自由なので、とりあえず、強運だぁ!と思うことにしてます。思うだけならタダ、タダですよ、奥さん。(笑)

で、今、目の前の事象で、気持ちが塞がっている方がいたら、それは次への段階が来たと、良いほうに受け取ったほうが、断然良いと思うのです。

10年前、手術が続いた年があって、手術室の番号が4号室だったんだけど、これを「4=死」と「4=四葉のクローバー」と連想するかは違ってきますね。私は後者を連想したのですが。これはある意味、訓練と言うかクセにしてしまう、日ごろの鍛錬が必要です。((^。^))

こればかりは、意識して、良いほうへ良いほうへ力技で考えることが必要です。人間は強くないときもあるので、他者としての視点が欲しいときには、手相見の出番もアリではないかと思ってます。

ひとつの終わりは始まり。不幸は幸福の種。

幸福は幸福への標(しるべ)。

 



誰かが誰かを

ある人にお話を聞いた。その人は「誰の世話にもなりたくない。お返しが大変だし。だからプレゼントをもらうのも大嫌い」「私は一人でがんばってきた。誰の世話にもなっていない」

別のひとはこうも言った。

「仕事で、この人がいなければ、成り立たないっていうのはイヤ。だから仕事は自分でなんでもやっている」

この言葉、謙虚に聞こえるかもしれないが、すごく傲慢だと、私は思った。本当に誰の世話にもなっていない、なりたくないと言うのであれば、無人島で自給自足をするしかない。それでさえ、他人様のお世話にはならないが、お天道さま(太陽)と海、川、自然のお世話になる。

以前にブログでも書いたけど、携帯の画面に夢中で、小さい子供を顧みずに歩いていた母親の前で、ドアを開けて待っていたことがある。彼女は携帯画面から目をそらさず、きっと目の前のドアは偶然開いているだけで、私が待っていたことも気づいていないだろう。極端だけど、自分で当たり前だと思っていることが、実は誰かの善意で成り立っているということは、この年齢まで生きていると、誰でも経験していることではないだろうか。

そして、自分の知らないところで、さりげなく、他人さまが道端のゴミを拾ってくれたおかげで、躓かずにすんだ、とか。

買い物籠を、誰かが定位置に戻してくれたから、すぐに籠を手にできるとか。細かいところでキリがないくらい、他人様にお世話になっているのだ。

極端な話、ゴミの回収業者のおかげで、街中は綺麗に保ててる。

浄水場が機能しているから、水洗トイレも使える。

昔、私も他人からのプレゼントが嫌いだった。それは、自分ですぐに「お返し」しなくては!という思ってしまうからだ。そのうち プレゼントをくれる人で、お返しを意識している人は意外に少ないと、経験から知った。贈りたいから贈るんだから。私も贈りたいから贈る。

お返しが速攻でくると、そういう気持ちがなかっただけに、申し訳なく思う。自分は速攻でお返しできない。少し間をおくといいいよ、というアドバイスを受けて、私はあまりお返ししないタイプ。皆様、いつもありがとうございます。お返しができていないと思います。

まぁ、バレンタインのような季節のイベントで、倍返しを下心に潜ませている人もいるけど。

自分で意識、無意識でするに関わらず、どんなことだって、他人様の好意があればこそではないか。

人類が生まれて、太古なら、一生にひとつ知ることができた知識が、先人たちの知恵を蓄えて、いる現代で何十年、何百年分も蓄えた知識を得ることができるの現代でも人間の悩みはほとんど変わっていない。

仕事を自分一人で抱え込む人は、いつも追われていて、余裕がない印象だ。

信頼できる人が自分の周りに居ません、って公言しているのと同じだ。

「プレゼントが嫌い」と言う人は、自分では何も他人に分け与えていない人と思われる。

もらうのだけが好き、ってのも同じかな。

「タダより高いものはない」っていうのは、「タダでくれる気持ちが尊い」という意味だけど、別の意味で「タダでしてもらうとお返しを求められる」というようなニュアンスで使う人も多い。

甘えすぎもおすすめできないが、誰にも頼らない!って頑なのも、もったいない。

生きていくには想像力や妄想力も必要。

あなたも誰かの案ずる気持ち、お祈りで知らない間に助けられているだろうから。



富氣と頭髪

タイトルは「フキとアタマガミ」です「フケとトウハツ」ではありません。

今日はひさしぶりに、涼しいせいか、日中は眠たいです。スピリチュアルでは彼岸の中日だから眠たいと言う説もあります。この世とあの世の扉は、月食の月と地球の影のような感じで、開いて閉じるらしいです。

私は、皆さん御存知のとおり、たいした人間ではないので、小さい悩みが少なくありません。ここらの話は2009年9月5日付「さようなら 枝毛」にも書いています。

長い間、一番の悩みは髪の枝毛、切れ毛で、ストレス脱毛でした。どんな高級シャンプーを使用しても、美容室でトリートメントを作ってもらっても、髪は筆のような枝毛になるし、ちょっとストレスを感じると、小さいハゲが頭に出現する。それは、小型円盤が着陸した跡に見えて我が家では「ミステリーサークル」と呼んでいました。

この髪の毛の悩みは高校生の時から20年以上も私を悩ませたのですが、この5年ほどは、枝毛もミステリーサークルも出現しなくなりましたね。

今思うと、頭部から正体不明の生体エネルギーが放出されていたのかもしれません。人間、誰しも髪の毛の伸びる速度は違うと、美容師さんのお話ですが、私の場合は伸びる速度が早いほうで、部位によって早さもマチマチです。

手相見を本格的に始めてから、出現しなくなったような感じです。ひとつ、悩みが解決しても、次の悩みが出現するのが人間。今度は髪の毛のクセに悩むようになりました。悩むところがレベル低すぎ、と突っ込みは御容赦ください。某漫談のネタにもあるように、「一日幸せになりたければ、床屋へ行け」という言葉があるように、髪が調子が悪いと、気分も盛り下がるのが人間というもの。

で、次にシャンプーは思い切って自分史上一番「お高い」のを購入。リンス不要なので、お高いようでそうでもないのです。使用量も少なく済みます。

髪の毛というのは、「氣」の影響を受けやすいというので、シャンプーするたびに浄化されて、後に残さないことも考慮して買いました。

トリートメントは、洗い流しても良いし、洗い流さないで使用すると整髪料にもなるという優れものを見つけました。

この数年、良い美容師さんに出会い、良いシャンプーに出会い、トリートメントに出会って、自分の髪質が好きになりました。こんな日が来るとは、円盤着陸跡の出現に悩んでいた頃は想像もできませんでした。

一点でも、これだ~!というお高いものを身に着けるのは、贅沢ではなくて、自分の中の豊かさに繋がるということで「富氣」をまとう、呼び寄せると言うことで、お奨めしてます。

私の場合は、シャンプーです。嫌なことや自分の失敗、反省点を洗い流す気持ち=浄化するために使用しています。

普段から質の良いものを身に着けているわ!という方も、もうひとつ上のランクの品を身に着けてみてはいかがでしょうか。

普段なら、絶対買わない高級菓子、普段は縁のない高級なお店で食事。ブランド物のハンカチ一枚、指輪でも良いと思います。「これだ!」という品を傍に置き、触れることで幸福な気持ちになり、その気持ちが更なる豊かさを呼ぶのではないでしょうか。

西洋占星術では、愛と金運は同じモノとして見るそうです。どちらも「欲しい」一辺では、上手くいきません。与えて(使って)得る(もらう)ことが大切なんだそうです。

私は、依頼主から見料を頂戴しているので、与えるものは「手相見の経験」しかありません。

最近、自分の運の「受け取り」が少ないわ~と感じているなら、運を待っているより、ちょっとした種を巻いてみる行動に出てみては。この世の不思議で、今日蒔いたソレが、明日、回収できるわけではありませんが、数日、数年後に大きな運に成長して戻ってくると、思っています。

今の私の幸福は、昔々に蒔いた種が戻って来てくれていると、最近 実感しています。

もしかしたら、回収は来世になるかもしれませんが。。。。。。(・_・)

種を蒔く時は、自分から。

7月末に見つけた右腕の「宝毛」も視界に入るたびに「嬉しい」気持ちになっていましたが、先日、長さを少し残して、切れていました~!今度の宝毛も無事に育って欲しいです。

毛一本で一喜一憂している自分は、小市民だと思いますが、幸福なんて人それぞれだから、良いんです。



それは お告げでした

先日、図書館で一冊の本を借りました。

 斎藤一人さん著作の「ツイてる」です。これにはCDが付録で付いているのですが、斎藤さんの声は聞きやすく、解りやすい内容です。100回聞いて、100回試すのが良いというので、試すことにしました。

お金持ちの働く思考と姿勢が解説されていて、とてもタメになる内容です。その中に「氣を配る」というお話があったので、「そうか!」氣を配ると言うのは、こういうことか!本当か?試してみよう!!これはお告げだ! ということで、今月は、天然石関連の「お直し」の品の取り扱いが多いこともあり、「石の調子はいかがですか」と氣になる方へとメールを差し上げています。

「煉さん、いきなりどうしたの!」と驚かれませんように。

私をとおして天然石を手にされた方には、幸せになって欲しい。もちろん、石にもです。

天然石関連には「どうですか」とメールできますが、手相見の依頼主さんには気楽にメールできませんね。

でも、何年経っても、御礼のメールをいただけるのは、とてもありがたく嬉しいことです。

年に一度、数年に一度メールをくださる依頼主さんたち、ありがとうございます。

あなたの一言で、手相見の寿命が1年延びるのを感じます。

 それから、「人は困らない、困っているように見えて学んでいるんだ」という話と「他人が機嫌が悪いのは一過性のもので、その人の都合で勝手に機嫌が悪いだけで、自分は自分の機嫌をとることに専念すべきだ」、「他人の機嫌をとる前に、自分の機嫌をとれ」という内容も深い感銘をうけました。

虹の季節

デジカメの写真を整理していると、去年の今頃は、空の虹の写真を撮影していたが、今年は撮影できていないようだ。夏至が過ぎて、今は冬至が待ち遠しい季節だが、太陽の通り道が変化して、窓辺のサンキャッチャーに光が差して虹が室内に多く映し出される季節となっている。虹を見ると、気持ちが和むのはその色彩の美しさ、太陽の光のありがたさを感じるから。サンキャッチャーが世界中で愛されているのも、よくわかる。空の虹を見るためには、雨を経験しないとならないので、運気が悪いというばあいは、虹入り水晶を傍におくことをすすめている。虹は光、光は魔を祓う。

誰かが話していた。「神は悪魔の姿で人を試し、悪魔は天使の姿で人を惑わせる」

今、辛いことがある人は、それは神様が試されているから。今運気が絶好調ならば、魔が忍び寄っているかもしれない。

古くから、人間は人の妬み、嫉妬の眼差しを「邪眼」と言って恐れていた。運が良い時ほど、周囲が眼に入らなくなり、有頂天になり、唯我独尊、独善的になるのが人間の常だ。

それゆえ、手にした豊かさは周辺の人と分かち合い、「あの人にイイコトがあると、自分にも恩恵がある」ようにすると良いと言われている。

嫌な人、苦手な人のことは、考えまいとすると、よけい氣になるもの。

本当は思考の端に思うのも、時間がもったいないと思うのだが。

妬んでいたり、氣にしたりする時間がもったいない。

私も修行が足りずに、苦手な人や好きではない人がいるが、引きずると、自分が損をするので、手帳には、イイコトしか記していない。

他人様が自分にしてくださった事だけ記入している。

頭に来たことも、腹が立ったことも、自分にとっては大事なエピソードだが、残しておくのは抽象的なことだけだ。

後は忘れる。適当な創作にして、ぼんやりと覚えている。

あっ!これって学習能力が無い人間ってことですか??((-_-;))

他人を気にしている時間は自分のことを考える時間に当てておく。

ただし、自分のことだけ考えていると、思わぬ「邪眼」に眼をつけられる。

人間の嫉妬は恐ろしい。

妬まれる側も恐ろしいけれど、妬む側をも侵食し、疲弊させ、負のスパイラルに巻き込んでしまう。

俗に、幸福な人はイジメをしないと言われる所以である。

確かに、自分が幸福なときは他人のことには寛容になる。

そこで、

嫌なこと、苦しいことを、良いことへ結びつけるかどうかは、本人の信じる気持ちにかかっている。

苦手な人や困った人は、自分の力試しに現れた「神様の化身」かもしれないのだ。

近況★

毎日暑くて、通勤で体力を消耗しています。暑がりの私。今年は、黒酢ドリンクを飲んで、なんとか体力を保っていますが、健康診断が終わったとたん、飲み食いしているので、体重増加してます。そのうえ、体力回復には睡眠ね!とばかりに寝ています。ロングスリーパーな私。午後10時まで起きていられません。早ければ午後8時半には爆睡しています。

寝ている間、魂は「あの世」に行っているということで、エネルギーを充電している感じですか。鮮明な夢もよく見ます。西洋占星術で言うところの土星が、もうすぐ私の星座から立ち去ります。もうすぐだ~~~。待ち遠しい。

 

仕事運を鑑定していただいた

手相を拝見して、人様の運気を読む身であるが、自分自身の運勢は大雑把にしか把握できない。身内の運勢も同じく。細かいところは情が入るのか、それが自然の摂理なのか読み取れないのが本当のところ。占い師は自分自身を占えないのだ。これは霊感占いでもそうだと聞いている。

私は「ツイテイナイかも」と思うと、動きがセコセコする。ジタバタする。そして結局は運に乗り切れない性質である。趣味のひとつは占いなので、機会があれば、色々な方に鑑定していただく機会も多い。多くの先生と出会い、鑑定していただいたことは私にとって財産である。

生活に余裕があるわけではないから、占いに大金を費やさせない。が、どんな占いでも、他人様に奨める事もあるので、自分で試してみることにしている。

無料占い、お試し占いなどを掲げている業者もチェックする。

私に必要なメッセージは、第三者の口を通して告げられると、信じているからだ。

今回、「抽選で、鑑定いたします」というメルマガの記事を見て、応募してみた。占いという軽い言葉ではすまない、運命鑑定。

ずっと、氣にはなっていた、先生だけど、鑑定料金から、なかなかお願いできずにいた。

新しいメニューのために、サンプルとして募っていた鑑定に、思い切って応募した。

必要なメッセージがあれば、当たるかも、という気持ちからだった。

そんなこんなで、私が当選したのだ。今年一年の運、使い切ったのでは???と思うほど嬉しい。このたび、サンプルとして、サイトで紹介されているので、先生の許可を得て、リンクを下に貼っておく。

とても、丁寧にじっくりと具体的に鑑定してくださり、質問にもきちんと答えてくださった。

鑑定を終えた後、先生には私のブログを見ていただき、ネットと言うメディアの性質上、細かい部分は、フェイクしてくださるようお願いした。私と私のブログを知る人が読んでくだされば、「コレはアレのことね」と解っていただけると思うので、脳内変換しながら読んでくださいませ。

占いというツールは複数用いて、多角的に見ると別のなにかが浮かびあがって見えることも。

ときに幸福は不幸の顔をして

残暑が厳しい日が続いています。あまり更新もしていませんが、いつもお立ち寄りくださりありがとうございます。さて、私は手相見としてプロと言えるのか、見料を戴いているから、プロと言われればそうですし、これを生業にしているかと言えば違います。おかげさまで、口コミながら多くの方とご縁をいただき、拝見して参りましたが、4年目の今でも初対面の人とお会いするときや二度目の場合も緊張します。いつでも気持ちだけは真剣勝負です。手相を拝見したとき、一見して、メンタル系の悩みを持っている人と言うのはわかります。これは数を見てきたから、と言えましょう。私は医師ではありませんから、そういう方を拝見する場合は言葉を選びます。

一番辛いのは御本人です。でも本人が気がついて「治したい」と思わない限り、治せない病もあると思うのです。

その、希望として、必要な段階として手相見はあるのかもしれません。

先日、高校を卒業して、全く会っていなかった同級生から電話がありました。

同級生の言葉は聞き取りにくいものでしたが、自分が不眠症で病院へ通っていること、独身であることを早口で告げて、私が独身かどうかを問うと、手短に礼を言って、電話は切れました。

それから、一週間、朝から晩まで 一日数回、同級生から電話が来ています。電話は迷惑設定に登録しているので呼び出し音は鳴りません。早朝5時半から夜は11時半過ぎまで、電話は来ています。

私は、朝から晩まで同級生の相手はできないので、電話は出ていません。普通に考えて尋常ではないという数の着信履歴。

着信履歴に並ぶ電話番号を見ると切なくなります。

高校時代の同級生は朗らかで、明るく、ちょっと天然なところはあるけれど、とてもそんな病に縁がある人には思えなかった。

年齢的にもそういう不安定な年齢なので、とても他人事と思い切れもしないというのが正直なところです。

先日、youtubeで、興味深い映像を見つけました。

映像の中に、「ときに幸福は不幸の顔をしてやってくる」という言葉があります。

…わたしもそう思います。

今、自分は不幸かもしれない。けれど、その不幸は未来の幸福に繋がっているのかもしれない。

忘れないで欲しい。不幸なあなたを救うのは、医師や薬やスピリチュアルや占いも必要であるが、最終的には 自分を救えるのは自分の意思だけなのだから。