生業にあらずだが

昨年、頼まれたバイトを、土日に10ヶ月ほどしていてですね、少し所得が増えたので、国民健康保険料やその他諸々の税金関係の支払い金額が数倍に。

数値で区切られている以上、1円でもラインからでたら、支払い内容が数倍ってねぇ、しかたがないんだが、なんか納得がいかないわ。2、3倍まではまぁ仕方ないと思うが…。

収入は2倍になっていないのに。保険料が数倍なんですよ!

これは、低所得者の意欲を削ぐと思うのだが。

今年は中途半端な稼ぎを脱出したいところ。

このところ色々あり、「ここいらで止めてもいいかぁ」と思っていたら、続けざるを得ない状況になったようです。

まぁ、この世が税金で公共サービスが回っているなら、仕方ないことだ。

これからも手相を見続けるべし、という天のお告げか。

実際、皆様の依頼があればこそ、私の生きる意味も余裕にも繋がっている。

支払う金額(税金)が増えたことを嘆くって言うのは、自分の心が貧しいって再認識する。

払えるだけ、働いた自分を褒めるほうが、豊かな自分だ。

持病持ちの私には、国民健康保険が無くてはならないシステム。恩恵を受けていることはありがたい。

よく、「税金をとられる」という表現が私を含めて、多くの人の口から出るけども、獲られる、っている意識が、よろしくない。

「納めている」と思えば、もっとお役所、政治家、などお上のすることに興味も持つし考える。長いこと、底辺な生活だったので、意識を改める。

齊藤一人さんの語る内容に、少しでも近づきたい。

実際、手取りは変わらないのであるが、増えた税金を納められる、豊かな自分、という考えにして。自分の中の「貧しい自分のメンタル」に氣がついた6月。

ちょっとした贅沢が、豊かな自分の波動に繋がるという。

暮らしに工夫をして、豊かさを探査する日々は続きそうだ。

夢見の話

本日の午後、ある方から届いたメールに「西の空を見て」とあり、窓から西空は見えないワタクシ、外に飛び出して見たところ、太陽の横にほんのり虹(彩雲)が見られたので、携帯で撮影した。

この写真だと、虹ははっきり見えないが、太陽(左端)と並んで、もうひとつ、太陽のようにも見られないこともない。彩雲は、昔から吉兆と言われるが、太陽が二つならぶとは「幻日(げんじつ)」と言われて天変地異の前触れともされる。良い事しか信じたくないので、ここでは彩雲ということにしておこう。大気が不安定なのか。

ついでに今日の明け方、見た夢の話を記しておく。

自分の住んでいる次元、宇宙空間から飛び出し、外から自分の住んでいる次元(宇宙)を見る、という夢。

夢の中の三次元宇宙はピラミッドを重ねたような、ひし形、映画「天空の城ラピュタ」に登場する飛行石のような形状をしており、銀河系はその上の端にあった。私たちの住む銀河系は三次元宇宙の辺境に位置し、さらに地球の属する太陽系は、銀河系の端に位置していると確認する夢だ。

先日、エドモンド・ハミルトン著 古典SFの名作「フェッセンデンの宇宙」を再読したので、その影響かも。

銀河系の中央には、セントラル・サンという部位があり、(レンズ状の銀河系の中心部。恒星の集合部分)そこから放出されているエネルギーが、この太陽系の太陽や地球に影響を与えているという学説があります。

最近、私が西洋占星術に興味を持っているのは、占い、だけではなくて、星のエネルギーが人間の行動に影響しているかも、と思ったのがきっかけです。

この世には見えないもの、一例として電磁波ですが、道行く人の多くが、スマホの画面を眺めている姿をみかけると、まるでお告げを待っているかのような印象を受けます。

電子レンジの電磁波は、眼には見えないけど、確実に食品を温めてくれますよね。

微弱な電波が、人間の脳になにがしかの影響を与えないとは誰も断言できないでしょう。

それが、良い方に現れるか、悪いほうに現れるか。誰にもわからない。

そう考えると、前人未到の世界が広がっているのを感じます。



ご縁があったら

小学生のとき、通学途中にある立派な大木があり、季節になるとたくさんの実をつけていた。枝にたわわに実った胡桃を摂ろうとして、樹によじ登り、ご近所のおば様に「危ないよ!!」と叱られたのも今となっては良い思い出だ。

食べても美味しい、見ても楽しい。胡桃は一番身近な自然界の恵みだった。

その拾った実の筋を取り、布で磨いて宝物にした。

やがて大木は伐採されて、その後にはおしゃれな家が建った。この胡桃の実は、大木の忘れ形見でもある。

社会人になってからも、公園にある胡桃の木から実が落ちていると、拾ってしまう。胡桃の実は、私にっては郷愁のアイテムだ。

 

お気に入りの雑貨屋さんで、見かけた瞬間から氣になっていたのは、これがオニくるみの殻から作られたインクだと聴いたから。胡桃からインク?衝撃である。そのうえセピアの色に惹かれた。 購入したとき、インクの作成者さんのお話も聴けた。作った年によって色味が変わってくるという。なんということだ。胡桃は実は食べられるし、見ても楽しいし、インクにもなる。恵の多い存在だ。

この年齢になっても、知らないことってあるんだわ。

最近は、忙しくて天然石アイテムには説明カードをつけていないが、このインクとツケペンで、石の名前を書いてみたいと思った。名前だけね。由来は今までどおり備忘録に記します。

5月は慌しく過ぎてしまった。タイミングが合わず、手相見もお断りばかりして申し訳ない。

6月からは、来年にかけて土日祝日限定でしか拝見しない予定です。

ご理解いただけたらありがたいです。

このところ、数年ぶりにメールや電話で問い合わせくださる方々がいらして「まだ、手相を見ていますか」と尋ねられることが続くのも偶然とは思えない。そんなに必要はないけど、数年に一度見てもらいたい~という、そんな手相見が私の立ち位置でイイトコだろうから。

これが、数年、手相見をしていた私に対する「答え」なのかもしれない。

手相見の需要がなくなれば、自然にフェードアウトすることになるだろう。

私の運気は次の段階に来ているようだ。

 

ご縁があったら、お会いいたしましょう。

次の展開も模索中。というか探査中。

その一押しに必要なもの

占いが氣になったりするのは、未来に希望が欲しいからではないでしょうかね。

人間は未来に希望が持てないと絶望しかないと、生きて行けないのじゃないかと思うのです。絶望だけ、になると自暴自棄というか、周りも巻き込んだり不幸のスパイラルに突っ走ると言うか、破滅へまっしぐら、となるのでは。

手相を見て欲しい、という人に「未来が不安」という方は多いですが、「幸せで最高!」や「どうでもいいぐらい絶望してる」って人はいません。「幸せだけど、心もとない」とか、「不幸だけど希望が欲しい」人が占いに足を止めるのでしょう。

占い師の言葉を励みにするとか、糧にするのが、良い利用の仕方でありますが、占い師の言葉に自分の人生の全てを託すのは正しい使い方ではありません。自分の人生の主役は自分で、こればかりは誰にも代わりにはなれません。ドイツの精神学者 フロイトやユングの言うところの「集合的無意識」で他人と繋がっているというのなら、他人の幸福は自分の幸福とも考えられますし。

スポーツで例えると、ゴルフでボールがカップにインしそうでしない、カップの淵を滑って行ってしまう場面や、テニスでボールがネットのヘリを転がってしまう場面を想像してみてください。

崖っぷちにつま先立っていて、あと少しのバランスを崩すと落ちてしまいそう!!な場面でも良いです。

あと、もう一押し、見えない力が欲しい!!、もう一息踏ん張りたい!!

というときにお役に立つのが、占いであり、そのための開運グッズだと思うわけです。

「運ばかりあってもねぇ」と、ある人に言われましたが、まことにそのとおりで、運を引き寄せるには自分が少しでも動かないとならんわけです。

もう一息、運の一滴があれば、化学変化を起こして、劇的に流れが変わることもあるんです。

長いこと生きていると、そういう場面を幾度も眼にしているし、体験もしています。

自分が運気、どん底だわ~、もうダメかもしれない…死にたいわぁ と思ったとき、TOKIOの「宙船(そらふね)」という歌に惹かれました。中島みゆきさんの名曲です。

「おまえが消えて喜ぶものに おまえのオールを任せるな」

喜ぶやつがいるかどうかはわからないですが、自分のオール(希望)を放り投げるのは、まだだ~。と思いなおし、加えて占いも活用しました。

自分の気力、あと一押し、欲しい!そのときに。

探し物を求めて~内面の旅へ

毎年、GWは紙に埋もれている氣がする。今年は桜も、去年より早く咲いた。連休中は、それなりに忙しく過ごした。デスクトップPCを開いてのホコリ除去もこのシーズンに行う。

身辺のゴミを片付けていた。

私の人生の大部分は紙ゴミとの格闘である。私の周りに紙ゴミが多いのは、幼い頃からの趣味でイラストや漫画を描いていたからだ。

漫画のネタを紙に書き留めるのはクセのようなものだ。

モノを持たずにシンプルに暮らしている人に憧れるが、それは叶わぬ夢だと思っている。

書くことは、紙=神 に通じる行為で、記憶するのも紙、想いをまとめるのも紙がなければならぬ。紙のない世界では暮らせないだろう。

絵でも文でも紙に書くと言うのは、脳の中の異次元から、この世に具現化するための儀式のようなものだ。で、あるからして、今も夢を見ると、紙切れに書き溜めているので、散らばった覚書を整理し、ノートにまとめて転記したりした。

本棚の本もかなり捨てたと思ったが、まだある。本につぎ込むお金を計算したら、切ないので考えないことにしている。本代は、亡き父が酒代につぎ込んだのと変わりない…と思いたい。

結局「保留」の箱にはまだ、メモが大量に入っている。私にとっては捨てがたい存在であるが、他人様から見ると、ただのゴミだというのが悩ましいところ。結局、幸福とはなんぞや?という極論まで行きつける。

メモを見て、書いた頃の自分を思い出したり、夢日記をまとめながら、その時の夢の啓示を確認したりした。私の人生のテーマは「探し物を求める旅」

そして、人生には閉じた扉がいくつかあり、それは今世では開かない らしい。

…個人的な希望としては、来世は地球には生まれてきたくない。

モノの本によると、「生まれ変わる」というのは、未来もあるが、宇宙的な時間軸の関係で、過去に生まれ変わったりする場合もあるという。過去は、ご遠慮したい。今世だってもうゴールを目指して淡々と生きていくエネルギーしか残ってません。

 

氣がついたら、5月も半ば。

バイトの都合で申しわけありませんが、手相見のご依頼の日取りは20日以降でお願いします。

私は水面~手相見に関するあれやこれ~


メッセージ絵書を保護する厚紙に書かれていたのですが、これも私の宝物です。手相を見るということは、ブログ内で幾度も記しているように、案外あっさりしているものです。運気の流れを読むのが主流です。

私の場合は手相を元にもっと深いところを見ていると想います。結果、当たるあたらない、という括りではなくて、目の前のチャンスをどう生かすか、人生の嵐をどうやりすごすか、ということを、今まで見てきた方の手相をもとに、方法を探すという内容です。

そこに手相見の私個人の私的な意見は入らないように努めますが、結局私は、依頼者の思考を写す水面のようなものです。水面が静かでなければ、空の月の姿をしっかり写すことができません。その逆も有りです。今まで、私は依頼主には恵まれていました。皆さん、基本的に前向きで、優しいし、パワフルです。手相を見た甲斐があるというものです。多くの方から、夢に近づいた、今、頑張っている、という知らせが忘れた頃に届きます。未来を見通す眼は本来閉じておくもの、それを使っている代償として、私は健康な体とひきかえ、あるいは視力の低下を招いています。

人の人生に、微力ながら立ち入る上で、提示された人生の機微を多くの人の運気を読み取ることでシェアしていきたいと思っています。

しかしながら、私は預言者ではありません。依頼主の現在の運気を押さえて、未来を予測することが可能ですが、選択するのはご本人です。

「煉さんが、○○と言ったから、○○しない」と主張される前に、自分の考えはどうなのか、もう一度向き合って欲しいと思います。

私の手相見は所詮、人間の力の及ぶ範囲であり、見えない世界の力を示しているものではないからです。

長い手相見の経験上、招来の危機や否定の予測を申し上げても、結婚される人はされるし、離婚される人はされます。手相見の意見は聴くけど、それは参考まで。という方々がほとんどです。

そういう使われ方で良いと思っています。

私は、水面。相手が「黙って座ればピタリと当たる」というのは、私には無理です。そんなに人の裏側に入り込むことは精神衛生上よろしくないので、いたしません。

聴きたいことがあれば、示していただかないと、それに対して深く見ることはできません。

依頼主の人生は依頼主が主役です。

それから、今までも何度かありましたが、同伴での手相見は今後、固くお断りします。

「お友達同士」「恋人同士」「ご夫婦」「兄弟姉妹」「親子」等々

いずれも同時にお申し込みは承りますが、同席での拝見はお断りします。

理由は、集中力が下がること、人間の深いところは、たとえ肉親と言えども「話せること」「話せないこと」が存在するからです。

今まで、なんとかなっていたところもあったのですが、今回、思うところがありまして、文章として記すことといたしました。
なにとぞ、ご理解賜りますよう、よろしくお願いします。


負の感情と向き合った3月

4月になりました。今日は、満月にして皆既月食の日です。占星術の運命の分岐点です。

1月から3月にかけて、周辺の人間関係の変動が多々あり、運命の嵐を感じていました。ちょうど12年前も私は嵐の只中でした。父の死、自分の病、ご近所との確執。そういう星回りだったと思います。今回のテーマは自分の負の感情でしょう。手相見であり、他人様の運命の流れを見ている私の中に、悟りきれて部分、諦観できずにいたもの、が存在したわけです。正直、枯れていたと思っていた感情がまだ残っていたのか!少し人間らしさが戻ってきたのかもしれません。

それは欲であり、黒い感情であり、恐れでありました。

ヘミシンクで少しずつ内部に変化が生じているならば、現在は膿出しの終盤です。これで、私は人間の負の感情の所在、昇華、やり過ごしの術を学びに行く機会を得たのだと納得しました。学びの途中、自分でその感情の活かし方を試すにあたり、得たアイテムに関する質問を、販売店に質問したところ、思いもよらない方から直接お電話を頂戴し、私の素朴な質問に関して、それは丁寧に教えていただく機会を得たのです。これは、正直本当に、お話できただけでもう、今年の運気を使い果たしたんじゃない?と思ったほどです。お電話を頂戴した相手の携帯電話番号すら、私にとってはお守りです。教えていただいたテクニックを実践し、手相見の皆様とシェアしていけたらな、と思っております。

人類が生まれて、数々の「神の使い」が地上に使わされ、愛を説き、平和を説いてきましたのに、人間と言うものは、何千年経ても負の感情をうまく処理できないもののような氣がします。

当たり前のこと、普通のことだと思っていても、別の人間から見ると、妬み、嫉みの対象になる場合があるわけで、それゆえに人は魔除け、厄除けを欲しているのでしょう。

これからは、開運の他に、厄除け魔除けのほうも勉強します。

もう、あれだ、普通に安定した道に行きたいなぁ、安定したら手相見も辞めたいなぁ と心の中で思っていたのに、背後霊からは思いっきり「それはダメ」と言われた気分です。

先日、見た夢で、とうとう ある書類を背後霊(ガイド?)からいただいてしまいました。

そう、不安定こそがわが人生のスパイス。

ずっと肩書きは「明日をもしれぬ自由業者」なままなんでしょうね。

しかし、もう新しいことを覚える気力もないので、好きなことを好きなだけやっていくのが

無難なんじゃないか。

運気の大いなる波の変動は来年らしいので、コツコツ開運探査を続けていくだけです。

知人に、自分の嫌いなことをすぐ口にする人がいます。

「このまえ、あのお店のお菓子美味しくて」と話すと

「あのお店の店員に失礼な態度をとられたので嫌い」というような答えが返ってきます。

感想は個人の勝手ですが、一事が万事、嫌いなことを口にしている。

本人には自覚がないのでしょう。

嫌いなことを多数口にしていると、それが癖になる。嫌いなことを言う口で楽しいことを

話したほうが良いんだろうな。

良い運気を引き寄せるには言葉は大切だとわが身を振り返って反省した3月。

まさに他人は鏡の法則。

周りには嫌いなもの は少ないほうがイイ。

自分の中の負の感情、ヘミシンクのイメージトレーニングで頑丈な箱に入れて海に流します。

 

ご縁を大事に次の段階へ

3月も去っていく。春風邪は症状は軽いですが、治りが遅いですな。

季節の変わり目です。

先日から依頼主の方々から、「結婚した」「試験に合格した」「子供が生まれた」「商売が繁盛している」等の嬉しいご報告を多々いただいており、私も嬉しいです。

手相を拝見しなければ、繋がらなかったご縁ですから。

最近、ネット検索で「紅の煉」(くれないのれん)で来られる方がいらっしゃるんですが。”くれの”ではなくて”くれないの” と呼ばれると忍びな雰囲気になるのが不思議なところです。

あと、”火に束”でも検索されていたっけね。

今まで、手相見の内容を忘れるように努めて参りましたが、リピーター様が増えていることから、できるだけ大局な流れを捉えて、遠い視点からアドバイスや運気の見渡しができないかと思い、勉強中。

手相見だけではなくて、開運の探査も続行中です。

季節の変わり目は運気の変わり目でもある

 

三寒四温というか、季節の変わり目、ともいうか。これは運気の変わり目か。週末から、体調がよろしくない。朝は平熱だが夜になったら高熱が出る。

熱が出る前は首周りから背中にかけて凝りがひどかった。

これは数年に一度の体調が悪い=運気の変わり目が肉体に現れているのではないかと思いあたる。

今時は、微熱程度ならお風呂も入っていいよ!というネットの記事を読んだので入浴後、一気に熱が38度7分まで上昇したものの、翌朝には36度3分に下降。

38度越えたのは数年ぶり!一瞬、インフルエンザかも?と思ったが、すぐに下がったし、関節の痛みもないので、風邪だと判断。

熱があるものの、身体的には痛みがないので、これはやはり「運気の変わり目」か~?

そのうち咳がひどくなったので、仕事場の保健室で咳止めのお薬をいただいて、無事バイトを終了。

帰宅途中にドラッグストアで咳止めの液薬を購入してきた。

咳は体力を消耗する、というか肋骨付近が痛いので、困る。

薬剤師さんから咳止めの薬について錠剤と液体の効能の違いなど詳細に聴くことができて、それが収穫だった。

これからの運気の変わり目に、私的には準備をしている。

大丈夫だ!と思いたい。

自分を実験台として、いろいろとお試しなこともしております。

どのようなお試しかは、続きは手相見の機会でお話します。

あなたは全てを持っている

手相見を見料を頂戴し始めてから、丸8年経ちました。

趣味の延長線で、他人様の手相を拝見してから25年過ぎました。

普通に暮らしていたら、耳にはしても、立ち入らない”深い話”にも立会いました。

そこで、私なりに考えた、私個人で得た感覚でモノを言いわせていただくと

結婚したい!できない!!と言う方は、家庭という学びを得られないかわりに、独り身の自由を得ている。

子供が欲しい!授からない!と悩む人は、子育ての喜びの変わりにパートナーとの学びを得ている。

たとえばです。この世の「幸福」の基準が、結婚して子供が生まれて、孫に囲まれた幸せな老後というのに限定してしまうのは、もう違う時代に入っているのではないでしょうか。

今は、ネットも普及して、個人の呟きがあっという間に、世界中の多くの人に共有される時代です。

幸福には、いくつものゴールがある。

画一的じゃない時代なんだと思います。これだ!という正解はどこにもない。

 

自分で不幸だ!と思っていても傍から見ていたら「幸せじゃない」という、見方もできる。

私?私はアレだ。表の職もパートだし、内職しているし、結婚もしていないし、肩書きはずっと「明日をも知れぬ自由業者」。

公務員の多い親戚からは「完全に人生の落ちこぼれ」扱いで、病弱で、救いようのない存在と思われている。

哀れまれているでしょうね。

こういう表面の事例だけみて哀れまれても、良いんです。一般に流布している社会の”幸せコース”から見たら、確かにオチこぼれています。

昔、結婚していた友人に「だんなさんがいてうらやましいよ」と話したら

「だんなが居たら居たで、いろいろと面倒なことがあるのよ。独身には独身のよさがある。世の中上手く出来ているよ」と言われました。

これが、二昔前なら、親の決めた相手と、年頃になったら有無も言わされずに結婚してですよ、もしも相手が、粗暴で酒飲みで、厳しい姑、小姑が居たとしてですね、私は一年も辛抱できませんね。きっと。それくらい、結婚に向いていない性格だとつくづく思います。

親類に顔を合わせるたびに「結婚」とか「老後はひとりで寂しいよ」とお決まりの台詞を言われますが、もともと一人が長いので、失う心配も無いのです。

てか、私の人生には、学びに「結婚」は入っていないようです。

今の時代に生まれてよかったです。はい。

確かにお金はないけど、屋根つきの家に住んで、ひもじい思いもせず、眠たいときに眠れる、良い暮らしですね。日本に生まれたことが、幸運だとも思っています。

美貌があって、お金もあって、理想的なだんなが居て、なに不自由のない!!という人も存在するけれども、学びの「面」が違っていて、他人からは見えないというか。

お月様の裏側のような秘密や悩みがあるんです。

悩みがないってことは、もうそれこそ「解脱」した人くらいなのでは。

いろんな境遇で、いろんな悩みを持っている。

みんな違ってこそ当たり前で、この世界を構成して共有している。

もう、新聞やネットや、女性誌でお決まりの幸せ!を刷り込まれて、ないものねだりするのをやめてしまえば、あなたの「持っていないもの」は「これから手に入るもの」とも言えませんか。

「欲しい幸せ」の裏には「必要ない苦労」が隠れているのかもしれません。

得ていないことに、悩むなら、諦めてしまうか、得るために動くと、なにかが違って世界は変わるでしょうね。

悩むより、解決策を探すのが良い。

子供もいませんので、子供の将来への心配もない。

心配と希望は、裏表、同じところにあって、見えかたが個人によって違うんです。

自分の食い扶持だけを心配すればよい人生で、幸せだよ、と話しても「そんなはずない」と否定される始末。

そういう人は、自分の幸せを、絶対幸福ではなくて、相対幸福(他人と比較すること)でしか実感できないのかもしれません。

確かに。私は、野たれ死ぬ確率MAXでしょう。

世の中の女性が全て、結婚が幸せっていうのも、不自然な話で、孤独を学ぶため、という人生も有りだ、と思っていると自分の世界は平和です。

二人で居ても孤独を感じることがある、とある人が話していました。

逆に孤独で居ても、孤独を感じない場合もある。

結局、自分の人生は、他人様の人生になり代われないので、他人様のことを妬んだり、優越感に浸ったりしても、しかたないんです。

あなたはあなただから、価値がある。

あなたという存在は、この広い宇宙の時間の流れの中では唯一無二の存在なのだから。